私の履歴書 - 松本徹三

はじめに


功成り名を遂げた人には、日本経済新聞の「私の履歴書」に「思い出」を語る機会があるが、私の場合はそういう事は先ずあり得ないので、記憶の薄れないうちにこれ迄のことを書き残し、たまたま興味を持ってくれた人がいれば、ウェブ上で読んで貰えるようにしようと考えた。


その時には夢中だったことも、後で振り返ると寒々とした感があるし、私の場合は特に「空回り」や「空振り」が多かったので、こういう話の全てを公開するのは恥ずかしい気持ちもある。しかし、60年の長きにわたって、絶えず真剣に考え続け、挑戦し続けたのは事実ゆえ、私自身には特に悔いはない。


また、私が生きてきた実業の世界(特に情報通信の世界)は、この60年間、文字通り激動の中にあったし、私のビジネス人生もそれなりに波乱に満ちたものだったと思うので、これからこういうビジネスの世界で長い時間を過ごす人達の中に、私の体験の中から何らかのヒントを得てくれる人がもしいれば、私としては大変嬉しく思う。



生い立ちと学生時代 (1939 – 1962年)


私は、兄一人、姉二人の末子として、1939年に東京で生まれた。


父は銀行員だった。先祖は「松本豊後守」と名乗る北条家の家老格だったが、秀吉の小田原攻めを目前にして、殿様の庶子を一人預かって田舎に身を隠し、15代にわたる家系図だけを守って、そのまま百姓として息を潜めていたという。15代目の当主であった祖父が米相場に失敗して一家は貧窮したが、四人兄弟の中で、父だけが辛うじて大学を出して貰えたと言う。


銀行で仕事をしている時に関東大震災にあい、周りで多くの人達が死んでいる中でも何とか生き延びた事から、「人並み以上の強運」を自認していた。50歳代の終りに胃潰瘍を患い、大きな手術をしたが、結局99歳まで生きた。生涯を通じて「人の悪口を言ったことのない人格者」と評されていた様だが、本人はそのことを喜んではいなかった。「自分は本当はもっと悪い人間だった」というのが口癖だった。


母は勝気な人だった。生家は、東京の下町、根岸、坂本界隈で青物商を営んでいたと言う。江戸城に日本で初めて外来のトマトを納めたと聞いたことがあるので、相当名の売れた商家だったのだろう。その頃の商家の娘は、未だに江戸時代の気風を残し、歌舞伎役者などにうつつを抜かしているのが普通だったらしいが、母は両親を説得して高等女学校にまで行かせて貰ったという。その為に、「変わり者」という意味で、「カワちゃん」という仇名をつけられたらしい。


私が生まれたのは東京の郊外だったが、父の転勤で、生後3ヶ月で大阪に移り住み、成人するまで主として大阪の郊外に住んだ。その間に、一時期東京に住んだこともあったが、空襲が激しくなったので、栃木県に疎開した。そのおかげで、ほんのわずかの差で東京大空襲を免れた。5歳の時に、疎開先で、大人達と一緒に玉音放送を聞いた。


高等女学校で良妻賢母教育を受けていた母は、日本が戦争に負ければ、当然子供を刺し殺し、自分も自決せねばならないのだろうと思っていたらしいが、結局何事も起こらずに、戦後の日本が始まった。


まともな食べ物はなく、常に腹をすかしていた。米国の援助物資だった家畜の飼料で作ったパンと、ふかしたジャガイモ、サツマイモが昼食の定番だった。風呂などというものはなく、母が湯に浸した手拭いで身体を拭いてくれるのが最大の楽しみだった。蚤に食われたあとが方々で膿んで酷い状態だったが、包帯とか絆創膏などというものはないので、古い浴衣を切り刻んだもので代用していた。今の時代から見れば「極貧以下の生活」だったと思う。


「シンチュウグン(米兵)に『チョコレート・ギブミー』というと何か呉れるぞ」と聞いていたので、一所懸命そう叫んでみたが、私自身は結局何も貰えなかった。しかし、時折、闇ルートで米軍の食料が入手できた。たまたまありついた缶詰のランチョンミート(現在のSPAM)が、「こんなにもおいしいものが世の中にあったのか」と思うほどにおいしかったのを今でも覚えている。


終戦後、一家は大阪に戻り、私は大阪府立北野高校から京都大学法学部へ進学した。


高校時代は結構秀才で、特に理数系に強かったので、理学部に進むことに興味があったが、実験や観察は苦手だったので、周囲が奨めた「就職に有利な工学部」には行く気がなかった。結局は、あまり迷うこともなく、「普通の就職」が可能な法学部に行くことに決めた。先生は東大受験を奨めたが、その気は全くなかった。当時から反骨精神があり、「官」より「在野」の方がよいと、何となく思っていた。


大学に入ってからは全く勉強せず、当時は珍しかったジーンズに革ジャン姿で時折自転車で学校に行くと、門衛に「部外者の学内通り抜けはお断り」と言われて、入れてもらえないこともあった。アルバイトで白タクやバーテンをやって小遣い銭を稼ぎ、漫然と遊んでいた。喧嘩が強くなりたくて、町道場に通って空手(剛柔流)を習ったが、その後大学の空手部(糸東流)に転じて副将を務めた。


当時は安保闘争が盛り上がっていたので、付き合いでデモなどに参加したこともあったが、あまり共感はもてなかった。それでも、当時の大方の若者達の例に漏れず、私も「資本主義には将来はない」とは思っていたので、選挙で自民党に投票する事などは考えてみたこともなかった。


法学部の勉強は全くしなかったが、文学や哲学の本は結構読んだ。特にアルベール・カミュやジャン・ポール・サルトル、フランツ・カフカ、オルテガ・イ・ガゼット等の著作を愛読した。日本の作家では芥川龍之介に傾倒し、若い時から晩年に至るまでの小品や書簡に至るまでを、余すところなく精読した。



伊藤忠商事に就職 (1962 – 1968年)


大学を出たら就職するのが当たり前と思っていたし、当時は新卒側の売り手市場だったから、気楽な気持で友人達と一緒に会社回りをした。たまたま友人の先輩の勤めていた三井物産の屑鉄部に行った時に、その活気に満ちた雰囲気が気に入って、父に相談したら、「商社は賛成だが、伊藤忠か住商にしろ」と言われたので、結局伊藤忠(大阪本社)に入社することになった。


父は住友銀行に勤めていたが、松下幸之助さんがオランダのフィリップス社と合弁で松下電子工業を創った時に、財務担当の副社長に招かれて、後に社長になった。中学生の時に松下さんが家にこられたことがあり、その時に頭をなでてもらったのを今でも憶えている。天才的な経営者としての松下さんの逸話は、父からよく聞かせて貰った。生々しい話だったので印象が強く、「成る程」と思うことが多かった。


伊藤忠では、機械部門に入りたいと希望を出したら、「輸出繊維機械課」に配属された。インド、パキスタン、フィリピン、インドネシアなどに、賠償や円クレジットで豊田自動織機が作る紡績機械などを輸出する課で、1年目は経理の担当、2年目からはインドの担当になった。


一年間の経理担当は、後で考えると大変大きな勉強になった。毎月の決算で課長が数字のチェックに苦労しているのを見て、それまでの大福帳的なやり方を一新して、契約毎の採算管理が出来るような新しい帳票システムを考案した。


当時ポンドの切り下げがあり、ポンド建てでやっていたロシア向けの延払取引で厖大な損が発生したので、「もし今後ドルでそういうことが起こったらどうなるのか」と思うと心配になり、自分で工夫してエクセルのような表を作り、手作業でシミュレーションが出来る方法を考案した。当時はコンピューター等というものは影も形もなく、日常の仕事はソロバンか手回し計算機だったが、もしその時にコンピューターがあれば、そのままその世界にのめり込んでいたかもしれない。


隣の「輸入繊維機械課」は、ドイツやスイス、イタリアなどから機械を輸入する「スマートで格好のいい課」だったが、羨ましいとは思わなかった。当時は「輸出で外貨を稼がなければ日本は立ち行かない」という切羽詰った使命感があったので、泥臭い発展途上国向けの仕事に誇りを持っていた。先輩達の働き振りには目を見張ることが多く、「商売の駆け引き」といったことについても多くを学んだ。


入社3年目に、かつては「相場の神様」と謳われた小菅宇一郎会長が相談役に退いたのを機に、相談役付きの秘書になった。小菅さんは情に厚い人格者で、多くの薫陶を受けたが、秘書室の仕事は全く性に合わなかったので、「営業の最前線に帰りたい」と再三陳情した結果、2年半あまりで解放された。


尤も、秘書室で学んだことも多かった。大会社のトップ人事の決まり方とか、それを巡っての色々な人間模様が、手に取るように見えたからだ。人によって差はあるが、権力に擦り寄り、主流から外れないようにそれぞれに必死に工夫している様は、あまり美しいものには見えなかった。その為、私には、「大会社で高い地位につきたい」という願望を持つことが、生涯を通じて遂に一度もなかった。「他人に真似が出来ないぐらい働き、自分で納得の出来る実績を挙げる」ということだけが、常に私の心の拠り所となった。



韓国で繊維機械の売込みに奔走(1968 - 1974年)


久しぶりに「輸出繊維機械課」に帰ると、主力市場はインド、パキスタンから韓国、台湾に変わっていた。


28歳の冬に韓国の駐在員になり2年間ソウルに住んだ。先輩はみんな外人居住区のアパートに住んでいたが、一番若い駐在員だったので割当がなく、街中で下宿した。風呂はなく、洗面も外だった。トイレは水洗式だったが、水が出ることはなく、自分でバケツで水を流さなければならなかった。オンドル式の部屋は、横になると暖かいが、座っていると寒い。市販の石油ストーブは事故が多いというので恐れをなし、結局、一冬の間、部屋の中でも厚手のコートを着たままで過ごした。


しかし、この経験のおかげで、ソウルの普通の市民の人情に触れることが出来た。若い多感な時だったので、短い駐在期間だったにもかかわらず、韓国を第二の故郷と思うまでになった。その頃に習い覚えた片言の韓国語を、今でも極力使って忘れないようにしているし、古代から現代に至るまでの韓国の歴史も、時折熱心に勉強している。


ソウル時代はよく働いた。中小企業銀行枠の輸入ライセンスというものが発給されたので、このリストをいち早く入手し、煙突に書かれたハングル文字とリストの会社名をつき合わせながら田舎回りをした。こうして一足先に見込み客との関係を作ったので、メーカーの信頼を得ることが出来、結果として、この関係のビジネスでは、当時韓国に支店を持っていた十社以上の商社の中で、1社だけで80%近いシェアを取ることが出来た。


仕事は8割方日本語で出来たが、当時は日本人に対する反感も相当大きかったから、言葉遣いにはいつも気を使っていた。4人の課員と代理店の人達との人間関係にも気を使った。商社の仕事は、大型の金融取引を除けば所詮は「仲介」の仕事だったから、韓国のお客にも日本から来るメーカーの人にも気を使わなければならない。当時は宴会では酒を無理強いすることも多かったから、来韓した日本メーカーの偉い人が酒が駄目だと、自分でその人の分まで飲まねばならず、二日酔い、三日酔いはざらだった。


韓国から帰ってしばらくは東南アジアの仕事も担当した。この間に、インドネシアには2ヶ月ほど滞在した。


32歳で結婚、同時に東京に転勤となった。東京で仰せつかったのは、機械部門全般(自動車、船舶、航空機、エレクトロニクスを含む)を統括する副社長付というポジションで、またもや秘書的な仕事が多く、あまり気が進まなかったが、その頃は日本も「もう輸出にはあまり力をいれず、輸入を増やせ」という時代に変わっていたので、「2年間この仕事をやったらその後は欧米に駐在させて貰う」という条件を認めて貰った上で、おとなしく命令に服した。


その頃の伊藤忠は、後に臨調で活躍する元陸軍参謀の瀬島龍三副社長が、「分権組織の総合商社にも全社を横断する参謀本部的な組織があるべきだ」という考えを強く打ち出し、世に言う「瀬島機関」というものが脚光を浴びていた時代だったが、私が仕えた機械部門担当の野村福之助副社長は、スマートで瀬島さんに負けず劣らずの頭脳明晰な人ながらも、繊維部門の現場でたたき上げた人だったので、瀬島さんとはかなりの意見の相違があった。


山崎豊子の「不毛地帯」に描かれているような対立関係とは全く性格の異なったものではあったが、少しはそれに似た出来事もないではなかったので、総合商社特有の大型プロジェクトにまつわる機密事項の取扱いと相俟って、未だ若輩だった私の日常の仕事にも、若干の緊張感があったのは事実だ。



ニューヨーク駐在時に通信機ビジネスを開拓 (1974 - 1982年)


2年間の東京勤務が終わると、約束通り、たまたま空いたポジションがあった「シカゴ駐在員」にして貰った。しかし、「食品、医療、包装などの分野で米国から輸入出来る新しい機械類を、何でもよいから探せ」というこのポジションは、既に時代遅れだったし、独立採算で運営するには無理があり、1年でニューヨークに転勤になった。


ニューヨークでも採算に乗るビジネスはなかなか見つからなかった。自分で稼げないと、セクレタリーさえ満足に使わせてもらえない。


ユダヤ系の米国企業が作るダンボール製造機器を、アルジェリア向けに石川島播磨が売り込んでいた製紙プラントの中にもぐりこませるとか、皇帝が強大な力を持っていた当時のイランが、イラクと束の間の関係改善を計った時に、イランの港に滞在するイラクの税官吏宿舎用にアメリカ製のモバイルホーム(家具調度品付きの簡易ホーム)を輸出するとか、当時脚光を浴びつつあった「国交回復前の米中貿易」の仲立ちをするとか、色々なことを試みたが、何をやってみても、そう簡単には結果は出ない。


「どうして食い扶持を稼いだものか」と思いあぐねていたところ、たまたま以前に一緒に仕事をした先輩が東京本社の「通信プラント部」の課長をしているのに気がついて、この人に「貴部だけがアメリカと全く関係を持っていません。私に年間1万ドル払ってくれたら何でもやりますから、考えてみてくれませんか」という手紙を書いた。この人は最後まで1万ドルは払ってくれなかったが、その代わり日本製の電話機などのカタログの束を送ってきた。


見るからにダサいカタログの束を見て、「こんなものがアメリカで売れるわけはないじゃあないか」と腹を立て、まとめてゴミ箱に放り込もうとした時に、ちょっと変わった形の電話機の写真と英文でタイプされた二枚の紙が目に留まった。これが、松下通信工業(現在のパナソニック・モバイルコミュニケーション)が世界に先駆けて開発したマイクロプロセッサー制御のボタン電話システムだった。松下はこれを電電公社にもっていったが全く相手にされず、「それでは輸出するしかない」ということで、藁にもすがる思いで各商社に持ち込んでいたらしかった。


それから色々な苦労があったが、結局、ここから始まった「ビジネス用電話システム」の対米輸出が、結構大規模なビジネスになる見込みがついたので、本社の「通信プラント部」の中に課を一つ新設してもらって、そこの課長として帰国することが出来た。私が39歳の時のことで、それ以来、私の「通信」との35年近くに及ぶ関係が始まる。


しかし、それからの約5年間は苦労の連続だった。順調に拡大していた松下のビジネスも、大型PABXシステムを手掛けだしてから技術の壁に阻まれ、トラブルが続発した。課員にまともに英語の出来る人間がいなかった為、課長の私自身が夕刻の5時頃から横浜の松下の工場に出向き、技術者の作るトラブル対策の手順などを翻訳して米国の販売業者に送り、最後の一人になるまで仕事をして深夜に帰宅するような生活を続けた。


現地に飛べば飛んだで、客先のセクレタリーに頼み込んで、「電話が途中で切れる。こんなことでは仕事にならん」と怒り狂う個々のユーザーからログを取ってもらったり、終業後のオフィスで深夜まで回線の繋ぎ変えをしたりと、泣きたくなる様な仕事ばかりが多かった。にもかかわらず、松下側からすれば、「そろそろ伊藤忠に手数料を払い続けるのは止めたい」と思うのは当然で、色々な局面で仕事から外される危機があり、私は「仲介業者」の悲哀を噛み締めさせられた。


課長として課員を路頭に迷わせるわけには行かなかったから、私は多くの屈辱に耐えたが、自分自身の心の中では、「仲介業なんかは早くやめて、メーカーで仕事をしたい」という欲求が抑え難くなっていた。長い間ずっと松下通信工業の技術開発チームの中で一緒に仕事をしていたので、門前の小僧も経を読み、特に新しい機種を創り出す事に対する興味が、人一倍強くなっていた。


この為に、後に某メーカーから責任のあるポジションを提示されて誘われた時には、真剣に転職を考えた事もある。



「ベンチャービジネス」というものを知る (1982年 - 1986年)


しかし、その頃、隣の「情報機器部」では、産業用のドットプリンターをビジネス用のプリンターに使うアイデアを自ら商品化し、当時急成長していたアップル社などにOEMで納める仕事が大成功を収めつつあり、破竹の勢いだった。つまり、隣の部は、それまでの「仲介業者」としての商社の枠組みから、既に脱却しつつあったのだ。


これを横目で見ていたので、自分も「通信」の世界で何とかそのような路線を歩みたいと考えた。色々と思いあぐねたが、NTTへの依存体質が強い日本の通信機メーカーの壁は厚い。結局、「米国やイスラエルのベンチャー企業と組み、彼等が開発したシステムを日本の家電メーカーに作って貰って、世界中で売るしかない」という結論に達した。(ベンチャービジネスは、米国ではこの頃から脚光を浴びつつあったが、当時の日本にはまだその萌芽は見られなかった。)


勿論、その間にも、一刻も休む暇なく、実に色々なことを手掛けた。韓国が初めて自動車電話(現在の携帯電話)サービスを始めると聞きつけると、単身アメリカの中西部に飛んで、当時モトローラと並んで唯一AMPS方式の自動車電話システムを開発・製造していたE. F. Jhonson社を口説き、その足で、今度は韓国に飛んで、韓国の電電四社の一つであった東洋精密(OPC)に、何の紹介もなしに飛び込んだ。三星(サムスン)はNECと、金星(現在のLG)はモトローラと既に提携していたので、選択肢は限られていたのだ。


その後色々な経緯があったが、両社の間に立って一人で走り回り、最終的に、E. F. Johnson社の技術をOPC社にライセンスするプロジェクトを何とか纏め上げることが出来た。これが私と「携帯電話」との初めての出会いだった。(このビジネスでは、うまくいけばロイヤリティーの一部が末長く伊藤忠に入る目論見だったが、両社共その後業績不振に陥り、残念ながらこの努力は結局報われることはなかった。)


あれやこれやしているうちに、再びニューヨーク駐在を拝命した。今度は堂々たる「伊藤忠アメリカ会社 上級副社長兼エレクトロニクス部長」の肩書きだったが、カリフォルニアに最盛期で四百人程度を抱える独立法人を持っていた「情報機器部門」とは全く関係なく、「通信」と「民生電子機器」の分野で、一人で一から仕事を創らなければならない立場だった。(早くからアメリカで仕事をしていた家電部門は、既に米国展開に失敗して撤退した後だった。)


会社がこの時期に私をニューヨークに送り込んだ理由の一つには、「AT&Tが分割された」事もあった。分割によって生まれた七つの地域電話会社(RBOCS)は、それぞれに新しい仕事を手掛ける意欲を持っており、時あたかも「コンピューター技術を取り入れたビジネス用電話システム」がブームを迎える気配だったことから、自分でも、「ベンチャーと組めば、この分野で何か大きな仕事が創り出せるかもしれない」という期待を持っていた。


しかし、結論から言うなら、「電話システム」と「ベンチャー」は相性が悪かった。情報機器の売り込み先は各企業の情報システム部門であり、この部門の技術者には新しいものに興味を持つ人達が多かったが、電話システムの売り込み先は総務部門であり、彼等は新しい物を下手に取り入れて失敗することを恐れていた。RBOCS七社も、実際に仕事をするとなると動きが遅く、上層部は興味を示してくれても、実務部隊は思うように動いてはくれなかった。


あれやこれやで、3年に及ぶ悪戦苦闘にもかかわらず、投資したベンチャーの殆どは壊滅した。それだけならよかったが、ベンチャー投資に飽き足らず、自らベンチャービジネスとして立ち上げた社員数15人程の100%出資会社(CICS社)も、存亡の危機に瀕していた。



「ベンチャービジネス」の挫折 (1986年 - 1988年)


この会社は、私が自分自身で長年構想を暖めていた多機能電話システムを、日本のシャープや大興電機等に作ってもらって、それを米国で販売する為の会社だった。私が開発した商品は、当時七つの地域電話会社(RBOCS)がAT&Tに対抗する戦略商品として売り込もうといていた「セントレックス」のサブシステムとなる筈のものだったから、これなら、彼等の販売組織にも興味を持ってもらえる筈だと踏んでいたのだったが、結果は思うに任せなかった。


「人に頼っていては駄目だ。自分自身で世の中のニーズを先取りして、既存の要素技術を結びつけ、独自の商品を創り出す必要がある。」その様に一人秘かに思い詰めていた私は、「Be creative or die(創造しないのなら、死んだ方がまし)」という標語(米国の独立戦争時代の標語「Be free or die」をもじったもの)を自分で作って、額に入れてCICSの社長室に掲げた。この仕事を始めた当初は、このように気持ちが高揚していたのだが…。


第一号商品として企画した最新鋭の高機能電話機(愛称ESCOM)は、エグゼクティブ同士、或いは秘書とエグゼクティブとの連携機能に重点をおいた「システム志向」の商品だったが、単体としても、これまでにない最高級機と認められることを目標とした。大型のLCDディスプレイと必要な時に引き出せるQWERTYキーボードを具備し、「電話帳」や「ワンタッチコールバック機能」は勿論、「システム内でのメッセージ交換」、「スケジュール管理」、「特定のデータサーベースから必要情報を取り出せる機能」などを内蔵していた。一九八六年の時点だから、世の中に全く存在していなかった機能も多かった。(例えば「グループ内でのメッセージ交換機能」はE-Mailと名付けたが、この呼び名を使ったのは世界で初めてだったと思う。)


このシステムの先進性には業界の中でも注目してくれる人が多く、或るコンサルタントの推薦で国防省の高官のオフィスに早々と一システム納入できたし、Dow Jones社は自社の株価表示システムと連動させてくれて、「Dow Phone」というパンフレットまで作ってくれた。しかし、如何せん、このシステムは、売り出してからすぐに致命的な欠陥を露呈した。


私の未熟さ故に、普通の多機能電話機を作る感覚で「機能決め打ち」でソフトを作り込んでしまったのが最大の失策だった。この為、「客からの変更要求に全く応えられない」という問題が早々と露呈した。「売込みにも販売後のトレーニングに手間がかかり過ぎる」「電話システムの拡張性が限られていて、大口の見込み客の要求に応えられない」等々の問題も生じ、あてにしていたRBOCSの販売部門は、「これらの問題が解決するまでは販売には踏み切れない」として「様子見」を決め込み、動いてくれなかった。


そうこうしているうちに、一向に売れない初期ロットは、たちまちのうちに在庫の山になった。折からの急激な円高にも打たれた。(尤も、私は「円高があろうとあるまいと、売れないものは売れなかった筈」と考えていたので、円高を言い訳にする事は一切しなかった。)


その頃の私には、別途、「伊藤忠アメリカのエレクトロニクス部長」としての広範な職責もあった(その中には、「NTTと一緒にジャマイカでテレマーケティングの会社を創る」という面白いプロジェクトもあった)ので、CICSの社長には早い時期に然るべき米国人を雇う予定だったのだが、こういう状態では誰もこんな会社には来てくれない。仕方がないので自分自身で社長兼務を続行して、毎日の半分以上の時間をこの会社の為に使わざるを得ないという破目になった。


しかし、朝早くから深夜に至るまで働いても、人間が一日に使える時間には限界がある。本社から頼まれる仕事は、「どうしても」という案件以外はついつい他人任せになる。本社から見ると、「あいつは勝手な事ばかりしていて、全く頼りにならない」という事になってしまうのもやむを得なかった。


こうなれば、いくら何でも東京本社での信用は完全に失墜する。先ず「CICSにはこれ以上金は出せない」という限度額を突きつけられた。ということは、「残り少ない時間内に目覚しい業績の好転がない限りは、CICSは倒産するしかない」事を意味する。


「これまでに使ったのと同じぐらいの金を更につぎ込んで、もう1年かけてESCOMを一から作り直し、その間に、別途開発が終わっていた『一般用の安価な電話システム』の方を先行販売することにすれば、RBOCSの販売組織を動かすことは十分可能だ」と考えていた私は、最早何を言っても聞いて貰えそうにない東京本社に頼ることを断念し、これまでに付き合ってきていたベンチャーキャピタリストを口説こうと考えた。


しかし、会社の名前をIBMの向こうを張ってICM(International Communication Machine)とした程の野心的なビジョンや、何日も徹夜して作った詳細な事業計画は、それなりにかなり評価されたが、「それでは何故伊藤忠はこの可能性を放棄しようとしているのか」という問いにはうまく答えられない。そのうちに資金切れの期日はどんどん迫ってくる。情況を察しはじめた従業員達の空気も不穏になる。「倒産寸前の会社」というものはどこでもそういうものなのだろうが、毎日が地獄のようになった。


エレクトロニクス部長を解任された上、「小さなオフィスを一つ用意しますから、当面は既に売ってしまった商品のアフターサービスだけを、一人でやっていてください」と、本社のかつての自分の部下に求められたこの時期が、私にとっては文字通り「人生のドン底」だった。「成程、自分一人なら夜逃げも出来ようが、伊藤忠の名前で売ってしまった商品ならアフターサービスをしないわけにはいかない。会社がお前一人でやれというのなら逃げられないというわけか!」そう考えると、流石に目の前が真っ暗になった。


しかし、誰を恨むわけにも行かない。全て自分で決めて自分でやったことだ。この頃になると、このような事態を招くに至った自分の多くの「判断の誤り」が、自分自身でもよく分かるようになっていたので、拭っても、拭っても、頭から離れない悔悟の念に、身を切られるような毎日が続いた。(この辺の話は、後述する久慈毅著「新規事業室長を命ず」で少しだけ触れられている。)


それからの必死の努力のおかげで、辛うじて「従業員の全員引き取り」と「アフターサービス」を西海岸にあった或る新興企業に引き受けて貰えたので、私自身は虎口を脱することが出来たが、その後この会社がこの商品ラインを生かして成長したという話は聞いたことがなかったから、結局は大きな迷惑をかけたのだろう。その事を思うと、今でもとても辛い。


会社売却の交渉を通じて、相手方に対して真実を糊塗した事は一切ないと断言出来るが、「夢を語り過ぎなかったか?」「気掛かりな事を全て洩れなく話したか?」と問われれば、胸は張れない。如何に「自分が生き残る為」だったとは言え、この事については、今に至るも、私の心の中で罪の意識が消える事はない。



屈辱に耐えての帰国 (1988年)


その後、本社からは「すぐに日本に帰って来い」という指示があったが、その気にはなれず、一人で秘かに米国での新しい職場探しを始めた。「あんたは日本に帰れば仕事があるのだからいいよな」と嫌味を言ってきたCICSの米国人の部下達に、「何を言うか。勿論私も伊藤忠を辞める」と大見得を切っていた手前もあり、自分だけのこのこ日本に帰るわけには行かないと思っていた。


つまらない「男のプライド」から、「伊藤忠時代より地位や給料が下がるのは嫌だ」という気持が先行し、この為に仕事探しは難航したが、そのうちに、これまでの仕事を評価してくれていた或る米国人の斡旋で、ノースキャロライナにあるノーザンテレコム社の交換機事業部のVPに採用して貰うことがやっと決まった。


正式な採用通知を貰った時には心底からホッとしたが、ホッとして伊藤忠に辞表を提出したその直後に、国際事業を巡っての同社の複雑な内部事情(カナダ本社と事業部との綱引き)が判明、同社に入っても難しい立場に立たされる心配が出てきた。自分の本領は何といっても「日本をよく知っている」という事だ。それなのに、内部抗争に巻き込まれ、その得意分野を生かせられなければ、よい成果は出せるわけがない。米国の会社だから、成果が出せなければやがて放り出される。私は頭を抱えた。


「この状況下で自分はどうすればよいのか?」しばらくの間、この事について相当思い悩んだ。ノーザンテレコム以外でもあらゆる可能性をチェックしたが、そんなに簡単にいい話は見つからない。一旦無職になって、また一から職探しをするとなると、家族の生活を守っていける自信が持てない。


そうなると、やはり、一旦は米国での全ての可能性を諦め、日本に帰るのが一番良いのではないかという結論になった。そこで、遂に意を決して、恥を偲んで伊藤忠の本社に電話をした。「あのう、辞表を出してしまっているのですが、もしかして、今からでも撤回させてもらうことは出来るのでしょうか」と恐る恐る聞くと、「ああ、いいよ。やってもらいたい仕事は山ほどあるから、帰ってきなさいよ」という返事が返ってきた。


思えば思う程に、堪え難い程の屈辱的な思いがこみ上げてきたが、家族の事を考えるとやむを得なかった。何よりも3人の子供達の教育を犠牲にするわけにはいかないと思った。こうして、私は、書類を整えて伊藤忠への復帰を認めて貰い、帰国の日取りも決まった。


しかし、どんな会社のどんな組織でもそうだろうが、「相当額の損失(今から考えると、さして大きな額ではなかったが)を出した上に、既に辞表を受理して退社が決まっている社員には、最低の評価点をつけて、他の社員への得点の配分を少しでも良くする」のが組織の管理者の常識だ。復帰が決まった時には、既にこの評価は人事部に登録済みだったので、採点者としても今更書き換えるわけには行かない。こうして、私の東京本社への帰任は、CCCという史上稀な「最低評価」の烙印を背負っての帰任となった。伊藤忠の内規では、こういう評価が一旦付いてしまうと3年間は消えない。



「通信事業部長」の仕事 (1989 - 1994年)


しかし、ちょうどその頃の伊藤忠は、これまでの商社の枠を破って「自ら通信事業を営む」方向へと大きく舵を切っていたところだったから、人材が払底していたのだろう。「最低評価」を背負っての帰任だったにもかかわらず、帰国の翌年には、「国際通信事業室長」として、トヨタ自動車や英国のケーブル・アンド・ワイヤレスとの合弁であるIDC社の運営の本社側の責任者となり、その翌年には、伊藤忠の看板事業であった衛星通信事業などを統括する「通信事業部長」となった。


その間に、部下の一人が熱心に進めていた「NTTドコモの携帯端末の販売店の展開」にも関与した。ちょうど「携帯電話機の売切り制」が始まったところで、業界の盟主たるドコモといえども、まだ全てが手探り状態だったので、商社からのアプローチにはそれなりの魅力があったのだろう。この仕事では私自身の貢献は殆どなかったが、「携帯端末の販売事業」は伊藤忠が他商社に先駆けたものであり、その後長年にわたって、この仕事は部門の最大の稼ぎ頭となった。


この件だけに限らず、この頃の商社は全てに貪欲で、世間も商社に期待していたから、多種多様な案件が国の内外から頻繁に持ち込まれ、その評価に毎日が目の回るような忙しさだった。少なくとも、一年に二つか三つの新規事業にGOサインを出したが、10件近くは却下した。米国駐在中に散々苦労した甲斐があって、「事業性の確認」には極めて厳しく対処するようになっており、例えば、イリジウムのような低軌道衛星事業等については、各社が次々に参入するのを横目に、「事業性がない」と確信して不参加の方針を貫いた。


しかし、私自身は、決して大企業的なバランス感覚に回帰したわけではなかった。CSKの大川功さんから声をかけてもらった「パンナムサット(コムサットに対抗する純民間企業)」は、「必ず成功する」と踏んで、本気で資本参加の可能性を追求した。しかし、この頃になると、さすがの伊藤忠も「衛星関連事業にこれ以上突っ込むのは危険」と判断するに至っていたので、力不足で上層部を説得出来なかった私は、結局この件を途中で断念せざるを得なかった。


もしこれをやっていれば、当時の伊藤忠全社の丸一年間の経常利益に相当するようなキャピタルゲインが得られていた筈だったので、この事だけは今考えても残念だ。それ以上に、本能的にこの仕事の可能性を嗅ぎ取り、最後まで執念を燃やしていた大川さんの期待を裏切ってしまったのは心苦しかった。


小さな仕事も色々手がけた。これも途中で投げ出してしまったが、日本初の「通信回線を使った野球ゲーム(実際のデータと連動したチームを率いて『監督の腕』を競い合うゲーム)」の開発では、業界誌から賞をもらったこともある。


これは私とは関係のないところで決まったことだったが、その頃、伊藤忠は、東芝と共に、米国のタイムワーナーに5億ドルの大型投資を行い、この流れで、日本でのケーブルTV事業の立ち上げも共同で行っていた。(この関係で、私は一時期タイムワーナーのExecutive Boardのメンバーだったこともある。)ケーブルTV事業はタイムワーナー社の目玉事業だったから、私もそれなりに全力を上げて取り組んだが、一方で、日本でのケーブルTV事業の推進は、後述する直接衛星放送事業とかぶるところもあったので、その扱いにはそれなりの苦労があった。


また、ケーブルTV事業の真の価値は、後に言われる「トリプルプレイ」にあると、その頃から私自身は確信していたので、少し方向性の違う「フルサービス・ネットワーク」というものに注力していたタイムワーナー社とは、戦略的な考え方が異なっていた。また、これは結局は杞憂に終わったのだが、「NTTが将来多くの家庭の電話線を光ケーブルに張り替えたら、ケーブルTV会社はとても対抗出来ない」と考えていた私は、どうしてもケーブルTV事業にのめり込む気持ちにはなれなかったのも事実だった。


(上述の「将来におけるNTTとの勝ち目のない競争」についての私の予測(恐怖)は、結局は間違っていたことになるが、実はこの裏には殆どの人が知らない政治的な戦いがあったに違いないと私は睨んでいる。2000年代の初めに、NTTはNGN(New Generation Network)の名の下に「各家庭への高速データ配信サービスを含む光通信網の構築計画」を発表したが、当初の意気込みとは裏腹に、この計画は急速に萎んでしまった。私の見るところでは、この計画に危機感を持った民放連と全国のケーブルTV事業者が当時の郵政省に懇請し、これを受けた郵政省がNTTに圧力をかけたと思われる。「これを受け入れればNTT分割論に手心を加える」と持ちかけられれば、NTTは受けるしかなかったのだと思う。)


だから、表面的には友好的に仕事を進めながらも、「こういった考え方の違いが、将来何か大きな問題を引き起こすのではないか」という不安が、私の心の中には常に付きまとっていた。そして、現実に、この事は私が考えていた以上に大きな問題を私にもたらしたようだった。「基本的な考え方の違い」はどうしても日常の言動に出る。タイムワーナーの側としては、実は私以上にこの不安を感じていた様で、「このプロジェクトの責任者を松本から誰か他の人間に変えて欲しい」と、密かに伊藤忠の上層部の方に働きかけていた事を、私は後で知った。やむを得ない事だった。



通信衛星会社の合併と衛星放送会社の設立 (1994 - 1995年)


この様に、この時代には、私の周辺では実に色々な事が同時並行的に起こっていたが、この時代に私が成し遂げた最大の仕事は何だったかと言えば、やはり「通信衛星会社の合併による四商社の大同団結」と、それに連動した「直接衛星放送会社(現在のスカパー)の設立」だったと思う。これだけは、「自分がその時期に伊藤忠にいなかったら、恐らく実現出来なかったのではないか」と、今でも密かに自負している。


当時、伊藤忠は、三井物産と米国のヒューズ社との合弁による通信衛星会社JSATの筆頭株主であり、JSATは三菱商事系の会社と日夜激しく競合していたが、ここに日商岩井(現在の双日)と住商が、第三の衛星会社SAJACを設立して参入しようとしていることが分かった。実際に仕事をしていれば、衛星通信にはそんなに使い道があるわけではなく、市場は既に飽和状態にあるのが分かるのだが、「他人の花は赤い」らしく、日商岩井や住商は、私から見ると「非現実的な夢」を持っているように思えた。


これを分かってもらう為には門外不出の市場情報を出すしかないのだが、まさかそれは出来ない。この為に、先ずは、日商岩井に対して楽観的な調査報告を出していた三和銀行系の調査会社を説得することからはじめる必要があった。話を分かりやすくするために、私は「業界全体の損益計算書」まで作った。


当時の伊藤忠の米倉社長は、衛星会社の合併方針は承諾してくれたが、「伊藤忠が頭一つ上に出ること」だけは絶対条件として譲らない。その為には、20%以上の株式保有に拘る米国のヒューズ社にどうしても退出してもらう必要があり、これは極めて困難な交渉となった。米国の会社は交渉がしたたかだが、彼等の条件を飲んでしまえば日商岩井や住商が収まらない。


しかし、合弁契約書をしらみつぶしに読んでいると意外な穴が見つかったので、これを盾に、普通の日本人はやらないような厳しい交渉をして、何とか目的を果たした。こんな交渉のやり方は、「目的の達成」よりも「友好関係」を重視する上司に相談すれば止められることは分かりきっていたから、全ては私の独断でやった。水面下でこの様な苦労があった事は、殆ど知る人もないだろう。


衛星会社の合併交渉と並行して進めたのが、四商社合弁の直接衛星放送会社(現在のスカパー)の設立だった。


その頃の伊藤忠は、音楽とスポーツの分野で、アナログ方式の通信衛星を利用する二社の番組供給会社に投資していたが、視聴者が少なく、毎月一億円以上の赤字を垂れ流していた。これを何とかしなければならない。NHKが視聴料をとっている上に、地上波放送が充実している日本では、余程のパラダイムシフトがない限り「有料多チャンネル」の魅力は訴えられないと私は考え、このパラダイムシフトを自ら創り出すしかないと決意した。


具体的に考えたことは、50から100チャンネルの規模のデジタル方式のプラットフォームを新たに創り出すことだった。今でこそ、「プラットフォーム」という言葉が普通に使われているし、「受託放送会社」というものも制度として定着しているが、当時としては極めて斬新な発想だった。


共通のプラットフォームの上に、各社が既にやっている番組供給会社を乗せ、更に幅広く新規参入者を求めた上で徹底的な宣伝をすれば、既存各社を黒字転換させると共に、システム全体を採算に乗せることも出来ると私は考えた。番組供給事業ではケーブルTV事業に注力していた住商がかなり先行していたから、衛星会社の合併がなければこの様な構想はもともと成立し得なかっただろうが、幸いにして4商社の大同団結が曲がりなりにも成立していた為に、この構想を一気に実現させることが出来た。


アメリカには、同様の構想を持った会社として、既にヒューズ社が経営するDirecTV(後に三菱商事と提携して日本に進出)が存在していたが、ライセンス料が高いので魅力は感じられず、「先手を取れば独自方式で勝てる」と踏んだ。(米国の技術に頼らずとも、ソニーなどには十分その力があると考えていた。)早い時点で、私一人で一気に企画書を書き上げて、郵政省(当時)や業界の有力者の支援を取り付け、それから他の三商社に話を持ち込んで、数ヵ月後に企画会社の設立に漕ぎつけた。この辺の事情を知っている人はもう今は殆どいないだろう。



結局避けられなかった伊藤忠との離別 (1996年)


しかし、この間に、タイムワーナーとの関係を始めとして、周辺では色々なことが起こり、衛星事業に関係しての4商社間での綱引きも始まっていたので、様々な思惑が交錯する社内外の駆け引きに、私は嫌気がさすことが多くなっていた。


その頃には、私は通信事業部長から新設のマルチメディア事業部長に横滑りし、その後、「情報産業」「通信・メディア」「航空機・防衛産業」を統括する「宇宙情報部門」の部門長代行に就任していたが、この部門の部門長(取締役)には、結局入社年次で一年後輩になる「稼ぎ頭の情報産業本部」の出身者が選ばれた。当然といえば当然の事だったが、こういう流れになると、これ以上伊藤忠にいても昇進のチャンスはあまりないのも事実だ。


いや、仮に昇進のチャンスがあったとしても、そこで自分の思う方向に会社を持っていけるという自信は、私には全くなかった。少なくとも情報通信産業の分野では、主力は全て「総合商社」の枠の外に出てそれぞれの道を歩み、本体は最小限の人員で「投資」のみを行うべきだと私は考えていたが、その様な過激な考えが上層部に容れられる可能性は、当時は殆どなかった。


後に急逝する私の当時の直接の上司の森亮人さんは、次期社長が確実視されていた人で、私は彼から「政治的な動き方」等については実に多くのことを学んだが、経営についての考え方は相当違っていた。


(ちなみに、私の退社後、急逝した森さんに代わる社長候補に急浮上した丹羽宇一郎さんの方が、「経営理念においては自分と近い」と私は思っていた。丹羽さんは私と同期入社で、私とは仲もよかった。既に退職していた私を、彼は或る日夕食に招いてくれて、「ここまで来たら、自分が腹を決めて社長になり、積年の膿を全て出す」という決意を、わざわざ披露してくれた程だった。丹羽さんはその後伊藤忠の経営を軌道に乗せて「大物財界人」として名を売り、後に中国大使になった。)


何れにせよ、この様な状況下では、結論は目に見えていた。私は、常日頃から、後輩の配慮で関係会社の役員に「天下る」様なことだけは絶対にしたくないと思っていたので、「そろそろ伊藤忠を辞める汐時かな」と考えるに至ったのも当然だった。思えば、48歳で失意に打ち拉がれて米国から帰国し、「伊藤忠に在籍するのはしばらくの間」と考えていた時から、知らぬ間に7年以上が経っていたのだ。


「伊藤忠から離れたいと」いう気持を持った背景には、実はNTTの問題もあった。伊藤忠の基本的な戦略は、「衛星通信や国際通信事業で世話になっていたNTTとの緊密な関係を堅持し、その力を利用して日本の情報通信産業界での地歩を固めていく」ということであり、それは伊藤忠のおかれた立場からすれば極めて理にかなったものではあったが、私の目から見れば、主体性のない「小判鮫商法」のようにも見えた。何れにせよ、「通信の自由化を梃子に新興勢力をつくり、既存勢力に対抗したい」という自分の「心情」とは、基本的に相容れないものだった。


ちょうどその頃、経団連では、各社の部長級で構成される「情報通信産業の将来像を考える」タスクフォースが、NTT分割問題についての意見具申を求められていた。私はその構成メンバーに選ばれていたので、そこでは「会社の立場」と「自分自身の信条(心情)」との相克に深く悩むことになった。「NTTの組織防衛」に組みすることは、伊藤忠の立場としては当然の義務だったから、私も実際にそうしたが、自分の一生を委ねる選択としては気が進まず、内心は鬱々としていた。


この事には別の側面もあった。副会長を最後に伊藤忠から離れた瀬島龍三さんは、伊藤忠の中でもなお隠然たる影響力を持っていたが、彼はNTTの取締役にもなっており、伊藤忠とNTTを結びつけることに熱心だった。従って、伊藤忠の中にとどまる限りは、事の如何を問わず、NTTと事を構えることなどは不可能と言ってもよいと思われた。


しかし、大袈裟に言えば、「こんなことをしていては、日本の情報通信産業は米国などに比べて大きく後れを取る」というのが、その当時からの私の強い考えであり、その後のどんな時でもその考えが変わることはなかった。NTTには親しい人が沢山いたし、そういう人達は全て素晴らしい人達ばかりだったが、「組織になると、何故か極端に閉鎖的で保守的になる」と私は思っていた。


色々なことが重なり、次第に決意が固まっていった。「そのまま伊藤忠グループの中にとどまるという選択肢は、どう考えてみてもない」と思うに至る一方で、「人生は一度しかない。もう一度ベンチャーで勝負して、自分の基本的な考えが正しかったことを証明してみたい」という高揚した気持もあった。


その頃には、日本でもベンチャービジネスというものに対する理解は高まりつつあったし、今度は初めから「通信」にこだわらず、また「ハードウェア」にもこだわらず、ネット上で動くユニークなアプリケーションの世界で勝負すれば、勝算は十分あると考えた。明確なアイデアがあったわけではないが、ビジネスマンを対象とする「ソシアル・ネットワーク」のようなものの構築を、漠然と考えていた。もし実現していたら、ずっと後になって出てくる米国のLinkedInに近いものに発展していたかもしれない。



経過措置としての「ジャパン・リンク」の設立 (1996 - 1998年)


当時は私のような立場でそういうことをする人は殆どいなかったので、世間の人達は随分驚いたようだったが、とにかく私は伊藤忠を辞めた。


伊藤忠には、性格的に色々な問題を抱える私を支えてくれた「恩人」とも呼ぶべき方々が何人もいたが、中でも、鉄屋一夫さん、降旗健人さん、後藤茂さんの三人の「恩」は生涯忘れることができない。その頃の伊藤忠で傑出した力を持っていたこの三人のトップ経営者の方々は、私の潜在力に常に興味を持ってくれ、苦しい時にいつも救いの手を差し伸べてくれた。しかし、だからと言って、いつまでも甘えているわけにはいかない。


「ちゃんと食っていけるだろうか」という不安は勿論断ち切れなかったが、家族には「生涯所得を倍増する」と強がりを言って、とりあえず「(株)ジャパン・リンク」というコンサルタント会社を創った。


見栄を張って資本金1,000万円の株式会社にしたが、従業員はゼロで、ニューオータニホテルの隣にセクレタリープールを使えるオフィスを借りた。ネットで見つけたアウトレットで安い中古のビジネス家具を買い、子供達に手伝ってもらって小さなオフィスに運び込んだ。取りあえずは、これまでの人脈を使ってコンサルタント業を二年間やり、この間に新しい事業を創り出す準備をしようという計画だった。


コンサルタントの顧客としては、「同じ分野ではかぶらないこと」を原則とし、固定通信では「米国のスプリントとドイツテレコム、フランステレコムの合弁会社であるグローバル・ワン」、放送関係では「CBS(米国三大ネットワークの一つ)を買収したウェスティングハウス」、移動体通信では「CDMAという新技術を開発したクアルコム」、エレクトロニクスメーカーでは「日本メーカーの中では一番動きが早そうなシャープ」、それに、伊藤忠時代の上司が社長になっていた「ファミリーマート」、伊藤忠のお情けで付きあってくれた「伊藤忠テクノサイエンス」、色々な切り口で個人的にも関係が深かった「衛星通信会社のJSAT」といったところに固定客になって貰い、後は個人的な関係を頼っての個別案件の受注だった。


某地上波放送局から、極秘で「BSデジタル放送サービスのあり方について」のアドバイスを求められ、提言書を出したこともある。(「広告放送と有料放送を組み合わせる」「有料放送部分については民放五社が連携して時間的にかぶらない番組構成にする」等のユニークな提言をしたが、結局相手にはされなかったようだ。)


「60GHzのポイント・トゥ・ポイントの無線を、東京都が下水道管の中に敷設する光ケーブルと組み合わせて、東京全域に自己増殖型の超高速通信網を構築する」という、ややドンキホーテ的な構想を色々なところに売り込んだこともある。


グローバル・ワンの仕事は押しかけのようなものだったが、私としてはかなりの思い入れがあった。その頃、スプリントと競合していたMCIが英国のBTと組んで野心的なプロジェクトを進めようとしており、日本政府もその様な動きに神経を尖らせていたので、「NTTが国際的なIP通信網でグローバル・ワンと組む」という姿が描けないかと思い、「それまでの『ベストエフォートのIP網』ではなく、『コントロールされたIP網(少し後に出てきたNGNのようなもの)』の共同研究を、グローバル・ワンの側からNTTに申し入れる」ことを、密かに画策しようと思っていた。(しかし、この様な構想は、スプリント社内の一部の人には興味を持って貰えたものの、あまりに時期が早すぎたので、具体化に至るには遠く及ばなかった。)


その頃は、「通信」と「放送」と「インターネット」を一体と考える「マルチメディア」という言葉が脚光を浴びていた時だったので、この全てにほぼ均等に関与してきた自分のような存在は貴重だと自負し、当初はこの全ての分野に顧客層を広げたことに密かに誇りを感じていたが、この全てを常によく勉強をしておくことは、実際には不可能に近いことがやがて分かってきた。ウェスティングハウスのマイケル・ジョーダン会長とクアルコムのアーウィン・ジェイコブス会長の訪日時期が重なりかけて、ハラハラした事もある。


そのうちにCDMAの日本導入の可能性が高まり、クアルコムの仕事が多くなってきた上に、クアルコムの半導体部門が日本にオフィスを作る構想を固めつつあったので、思い切って当初の「ベンチャー企業設立」の構想を捨て、クアルコムに入社することに決めた。知れば知る程クアルコムの技術陣は優秀であり、彼等が開発したCDMA技術の潜在力は、想像を絶するほどに大きいものであることが分かってきたからだ。



「クアルコム・ジャパン」の設立 (1998 - 1999年)


CDMAの日本導入は、モトローラのボブ・ガルビンと京セラ(DDI)の稲盛会長が意気投合して進めてきていたものだったから、クアルコムの貢献はさして大きくはない。それでも、最後の土壇場ではかなり重要な貢献をしたと思う。途中まではコンサルタントの立場での仕事だったが、最終段階では新設のクアルコム・ジャパン株式会社の社長として関与した。


この会社の社長は、本社側では当初は典型的なアメリカ人のエクスパトリオットを考えていたが、コンサルタントの立場から「日本人にした方が良い」と主張し、その上で自分自身を推薦した。やるからには、外資系の会社によくあるような「本社の使い走り」のような仕事はしたくなかったから、それなりの格を作る為に、「トップ直結の組織にすること」を絶対条件にし、自分の給料についても、敢えて高い水準を要求した。


(因みに、ここで頑張った事は後々大いに役に立った。通常の外資系企業では、本社の各部門がそれぞれ海外店に自分の部下を持ち、彼等は本社の顔色ばかりを見てそれぞれがバラバラに動くのが普通だ。この為、各部門が連携して戦略的に動くことが出来ず、客先からも「方針が一貫しない」と苦情が出ることがある。しかし、私はトップに直結していた為、各部門の長といえども、日本人の部下を勝手気儘に顎で使うことは許さなかった。英語でのコミュニケーションが下手な為に誤解を受けて、危うくクビになりそうだった日本人社員を何度か救うことも出来た。)


クアルコムに関連して一つ私の大きな誇りとなったことは、それまで海外展開のあり方については全く無知だったクアルコムが、「海外店のトップはその国の人間にする」という原則を作り、現実に例外なくそれを実行してきたことだ。これは、日本での成功を、韓国へ、中国へ、更にインドや東南アジア諸国へと広げていったからであり、その節目々々で、私はそれなりの役割を果たしたと自負している。(尤も、この体制は現時点では大幅に変更されている。)


CDMAの事業化は、米国よりも一足先に香港で始まり、韓国が「国を挙げての統一標準」としてこの技術を採用したことによって勢いがついたが、日本での事業化は、1998年に京セラ系のDDIが関西地区で始めたのを嚆矢とする。開業日にバッテリーが瞬く間に上がってしまうという大問題が発生し、関係者全員真っ青になったが、原因はすぐに分かり、クアルコムの技術者が一週間不眠不休で解決に取り組んで、何とか事なきを得た。半年後にトヨタ自動車系のIDOが関東、東海地区でも営業を開始し、やがて全国網が完成、次第に存在感を示すに至った。


しかし、データ通信がそれ程重要でなかった当時としては、CDMAのメリットは、「周波数の利用効率の良さ」だけだったから、さして周波数が逼迫していたわけではなく、多額の金を払って競り落とす必要もない日本では、当然のことながら大いに苦戦した。「音質が良い」という若干のセールポイントはあるものの、その程度のメリットだけでは、「コスト高」という致命的なデメリットを吸収出来るには程遠い。クアルコムは「ロイヤリティーが高い」「チップの値段が高い」と責めたてられ、毎日「針のムシロ」に座わらされているような感じだった。


しかし、もしDDIやIDOが、この時、直接の競争相手であるドコモが開発したPDCにとどまっていたら、常に「新しい機能を入れた端末はドコモからしか出ない」状態が続き、日本の携帯通信サービスは「見せかけだけの競争」にとどまってしまっていただろう。DDIやIDOのこの時の決断と、それに続く長年の忍耐は、日本の携帯電話業界に「真の競争」を持ち込む礎を築いたと、私は今でも考えている。


携帯通信のデジタル化(第二世代)の動きを世界的に俯瞰してみると、欧州全域を一つのシステムで一気に統一したGSMが、次第に圧倒的な強さを示めすに至った経過がよく見て取れる。


ノキア、モトローラ、エリクソンの三大メーカーが量産効果を生かして安くてスマートな端末を供給し、殆ど全世界でローミングが可能なGSMは、アジア、アフリカを席捲、米国の裏庭である中南米でも次第に優位に立った。アメリカでは、CDMA、北米標準のTDMA、それに米国政府自身が欧州から招きいれたGSMの三つの技術の鼎立となっていたが、そのうちにTDMAが没落した。技術的にはGSMより優位だったCDMAも、北米でこそ市場の半分程度を押さえたが、韓国と日本を除くアジアと中南米ではGSMに勝てなかった。日本固有のPDCは、日本の外では一勝もあげられなかった。



第三世代携帯通信(3G)事業を巡る角逐 (1999 - 2000年)


そのうちに2GHz帯を世界の統一周波数とする「第三世代モバイル通信システム(3G)の導入」が世界の通信事業者の関心を引き始めた。


ドコモは、「クアルコムが開発したCDMAは狭帯域だが、これをより広帯域で使うWCDMA方式の技術開発については、自分達が世界で最も進んでいる」と公言して、このシステムの世界標準化の先頭に立った。これに呼応したのが北欧勢のエリクソンとノキアであり、異なった方式を推すアルカテル(仏)とシーメンス(独)の連合軍と戦った。この戦いは有利に進んだが、ここで、思いがけず、CDMA技術の基本特許を持つクアルコムの頑強な抵抗に会う。


クアルコム側は、「音声とデータを広帯域の中で同居させるWCDMA(R99)方式には殆どメリットがなく、それはそれでよいとしても、取るに足らぬIPRを無理やりに導入してCDMAの基本特許の価値を薄めるやり方は不公正だ。世界中の巨大通信事業者と巨大メーカーが結託して小さなクアルコムを圧殺しようとするなら、あくまで戦う」という立場を貫いた。実際に「公正な条件が認められないなら、誰にもCDMAの基本特許の使用を認めない。その為にCDMAが世界標準にならないのなら、それでも良い」という爆弾宣言をして、世界中を驚かせた。


私は、サンディエゴの本社でこの方針が決定された現場に居合わせ、意見を求められたので、積極的な賛成論を開陳した。「ドコモは旧方式に回帰しないか?」と聞かれたので、「ドコモは技術的信念を曲げない会社故、それはあり得ない」と明言した。


この爆弾宣言は直ちに世界中に伝えられたが、日本では、私自身がドコモの立川社長や郵政省(当時)の稲田移動通信課長に伝えた。当然のことながら、関係者は全員が極めて不機嫌になり、私としては、決して楽しい経験ではなかった。その後、ドコモ(森永副社長ー当時)とクアルコム(ジェイコブス会長)は密かにパリで会見し、平和的な解決について合意したが、私は勿論それにも同席した。


クアルコムのこの強気の姿勢には、当然それなりの理由があった。クアルコムは「バースト型のデータ通信は電話とは全く性格の異なるものであり、それ故に、無線通信の方式も全く異なるものであるべきだ」という基本的な考えを持っており、既にデータ通信に特化した新しい方式を開発しつつあった。この方式は当初はHDRと呼ばれていたが、これが後のEVDOとHSPA(WCDMA方式の拡大版)の原型である。


このように、クアルコムは「携帯電話の将来像は携帯インターネットであり、その為にはHDR方式の早期導入が必要。方式を抜本的に変えないままに周波数帯域のみを広げて凌ごうとしているWCDMA方式は回り道である」と考えていたので、盟友である筈のKDDIが、第三世代に移行するに当たってHDR路線をとらずにWCDMA方式を選ぼうとしている事態に直面した時には、これに強く反発した。ジェイコブス会長も自ら稲盛会長を説得しようとしたが、うまくいかなかった。


クアルコム本社が極度に苛立っているのを感じた私は、遂に「伝家の宝刀」を抜くことを決意した。「KDDIが路線を変更してくれないのなら、クアルコム自身が日本で通信事業者となるべく、ライセンス取得競争に参入する」と宣言、その為に「ワープ・コミュニケーション」という企画会社を作った。その背景には、当然のことながら、米国の某大手通信事業者が日本進出に多大の興味を持っていたという「裏の事情」もあった。


この突然の宣言に、「三つの周波数枠を既存事業者三社に与える」という方針を既に内々で決めていた郵政省(当時)は仰天した。「まさかそんなことは出来ないだろう」とも思ってはいただろうが、私は、強い信念を吐露した「趣意書」を先行して郵政省(当時)に提出し、その中で「事業化の手順」までをきちんと示すことを怠らなかったし、米国大使館やUSTRの支援も得ていたので、あまり馬鹿にも出来なかったと思う。しかし、郵政省以上に事態を憂慮したのは、合併してKDDIを創ることに既に合意済みだったDDIとIDOだっただろう。この辺りの事情は塚本潔著「ドコモ・トヨタ・ソニーIT覇権戦争(2000年9月カッパブックス)にも書かれている。


私は、生涯を通じて常に労を惜しまずよく働いたと思うが、一番集中して働いたのは、やはりこの時だったと思う。賽を投げてしまったのでもう後には戻れない。腰砕けになったら天下の笑い物になる。しかし、逆に免許が取れてしまったら、人集めから金集め、「データで勝負する新しいビジネスモデルの確立」まで、全てを一から始めなければならず、心身ともボロボロになるまで働き続けなければならなくなるだろう。


本心ではKDDIに翻意して欲しかったし、このことを公然と明言もしていた。その為に、私の行動を「所詮はブラフなのだろう」と思っていた人も結構いたようだったが、まさかそんな甘い考えでこんな大勝負は出来るものではない。私は、最後まで「和戦両様」の構えで事に当たっていた。


時間も切迫していた。わずか5人のチームで、日常の仕事をこなしながら、厚さ5センチ以上もある申請書類を1ヶ月足らずで作り上げたが、その間は、疲労と心労で毎日腹具合がおかしかった。米国の某通信事業者とは、投資の条件とその手順を含め、特に緊密な連絡を取る必要があったが、アメリカに行っている時間はなかったので、本社の支援を受けながら、殆どのことを電話会議でこなした。「午前1時頃まで書類作りをして、それから近くのホテルに泊まり、明け方の4時に目覚まし時計で起きて電話会議に臨む」というようなこともしばしばだった。


結果的には、稲盛さんが土壇場で方針を転換してくれたので、「ワープ・コミュニケーション」が事業会社として日の目を見ることはなかった。KDDIの最終方針はサンディエゴでのトップ会談で固まったが、その時点で、稲盛さんは、「ドコモの強力な技術陣に対抗する為に、クアルコムをKDDIの研究開発部門と考え、両者が緊密に連携する」ことをクアルコム側に提唱し、その場で合意がなされた。



「クアルコム・ジャパン」の仕事 (2000 - 2005年)


これで私は大きな重荷から解放され、普通の日常に戻ることが出来た。この頃になると、「クアルコム ジャパン」の社員数も順調に増え、会社としての体裁も整いつつあった。


その頃には、アナリスト達の主催する講演会などにも招かれることが多くなったが、そういう場では、私はいつも、「やがて携帯通信事業者のデータ収入は音声収入を凌駕する。それ故、データ通信に向いた新技術を一足先に使える立場になったKDDIが、近い将来ドコモを抜く可能性がある」と語った。「3Gライセンス取得宣言」で世の中を騒がせた直後だったので、「大ボラとしても面白い」と思ってくれた人は、結構多かったと思う。


(今になって、「KDDIがその時点で世界の大勢となりつつあったWCDMA路線をとらなかったのは失敗だったのではないか」と言う人がいるが、私はそうは思わない。「何れは全てのシステムが統合されていく」事は分かっていたし、それまでの間は、端末開発のスケールメリットに多少の差があっても「デュアルモードのチップ」で吸収出来る。しかし、時間は金では買えないから、この時点ではHDR(EVDO)で「データ通信での優位性」を誇示し、ドコモとの差別化を計る方が明らかに得策だったと、私は今でも考えている。)


広報活動のことについて触れたからには、もう一つ言っておかなければならないことがある。その頃の私は、CDMAのライセンス料を巡る日本の業界の反発に対しても、臆することなく立ち向かった。業界の不満はクアルコムのロイヤリティーが高すぎるということだったが、私は「さしたる根拠もなく高いと決め付けるのはおかしい。高いか安いかは需要と供給のバランスが決めるものだ。求められるものにはその価値があるのだ」と主張した。本社から出張してきた経営幹部は、この話になるとみんな逃げたが、私には「革新的な技術が生み出す価値」についての確固たる信念があったから、決して逃げることはなかった。


ついでながら、かつての論戦の中では、私は公然とこう言っていた。「クアルコムはたまたま成功したが、その陰には、クアルコムの様に独創的な技術を追求して孤独な戦いを続け、遂に報われることもなく破綻していった多くのベンチャー企業がある。我々は、夢破れて散っていったこれらの人達の為にも、人々の羨むような大きな利益を上げなければならない。」


そしてまた、別の機会に、私はこうも言った。「日本の将来を担う若者達の為にも、我々は高額のロイヤリティーを取り続けなければならない。日本の若者達は、これを横目で見ながら、悔しさに耐え、『何時の日かは、自分があのようになる』と、闘志を燃え上がらせて欲しい。リスクを恐れ、人の後追いばかりしていては、結局報われることはない事を知ってほしい。」


クアルコム・ジャパンの仕事をしていて、嬉しいことも幾つかあった。


ある米国の機器メーカーが、本社のトップに対して、「クアルコムは日本法人の社長に幾ら払っているか知らないが、例え幾ら払っていたとしても。元は十分取れている」と言ってくれたこと。来日したチャイナユニコム会長の王建宙さん(その後チャイナモバイルの会長に転出)が、帰国後わざわざ本社のアーウィン・ジェイコブス会長に電話をして、「クアルコム・ジャパンのような会社を、中国にも是非作って欲しい」と言ってくれたこと等だ。


もう一つ嬉しかったのは、ベンチャー投資のささやかな成功だった。クアルコム・ジャパンは日本のスタートアップ企業を対象に30億円のベンチャー投資ファンドを運用する事を任されていたが、2年あまりの運用でその半分弱を使い、IPOにこぎつけた会社が4社、破綻したのは僅か1社で、これは本社を驚かす成果だった。若い時にベンチャー投資で全敗した苦い経験を持つ私としては、ささやかな成功であっても嬉しかった。


クアルコム・ジャパンの主たる仕事は、クアルコムのチップセットを買ってくれている日本メーカーを支援して、二つの目的を達成することだった。一つはKDDIの日本市場でのシェアを伸ばすのに貢献すること、もう一つは日本メーカーの海外市場での販売を増やすことだ。直接最終ユーザーに商品を売る立場ではないのだから、これが実現しない限りは、クアルコム・ジャパンの商売は増えない。


前者の鍵は、HDR(EVDO)を早急に導入して、データサービスのフラットレート化を実現することだったが、当時2兆円の有利子負債を背負っていたKDDIはなかなかその決断をしてくれなかった。HDRのインフラベンダーとしては、当時はサムスンと日立しかなかったので、日本ではまだ信頼が得られていなかった「サムスン」の売り込みに力を入れたのは勿論、「KDDIの大株主である京セラと日立との提携」も画策し、KDDIが一日も早く決断してくれるように、あらゆる努力を尽くした。


KDDIが「アイモード」で先行していたドコモとのデータサービスの競争で勝利する為のもう一つの鍵は、ゲームなどのネイティブ・アプリを携帯端末上で高速で動かす仕組みであるBREWの推進だった。


当時のクアルコムには、「BREWを拡充してリナックスのカーネル上で動くミドルウェアとし、先々は全体をリナックス OS化する」という構想もあったが、後にクアルコムは「多数のOSベンダーのそれぞれと緊密な友好関係を構築し、チップの拡販に注力する」という路線に進んだので、この構想は放棄された。これはクアルコムとしては正しい選択だったが、時計の針を少し元に戻して、もし早い段階でクアルコムが、先ずBREWを完全にオープンにして無償化し、その上で、各通信事業者が自由に格安で利用出来る「アプリケーション・ストア」を運営していたとしたら、世の中は相当変わったものになっていたような気もする。


また、当時のクアルコムは、未だに「GSM対CDMA」という対立の構図の中にいたが、早々とこの対立を解消し、BREWをGSM(GPRS)の上で動かしていたら、世の中はどうなっていただろうか?


(この時期のクアルコムを巡る色々な話題については、2006年7月に日経BP社から出版された稲川哲治著「21世紀の挑戦者 クアルコムの野望」に詳しい。ちなみに、BREWはBinary Runtime Environment for Mobile の略であり、JAVAの様なバーチャルマシンを介さずにnativeのゲームソフト等をそのまま動かす仕組みである。ずっと後になって、ソフトバンクは、ボーダフォン(英)、ベライゾン(米)、中国移動通信との4社合弁でJILというゲームサービスの開発会社を作ったが、ここで使われる予定だった技術もそれに似たものだった。後日談になるが、ソフトバンクはiPhoneに賭ける戦略を固めた時点でJILを断念した。)



クアルコム本社の上級副社長(Senior VP)に就任 (2005 - 2006年)


ちょうどその頃、クアルコム本社で私はシニアVPに昇格、日本と併せて東南アジア・大洋州を統括することになったので、これを機に、日本法人の社長を私より17歳若いパナソニック出身の技術者である山田純さんに譲り、私は会長になった。日本オフィスでは私は小さな部屋に移り、その代わりサンディエゴと香港にオフィスを持って、週末の殆どは国境を越えた移動に使う生活になった。


当初、私は、この新しい立場で、少しは日本の端末メーカーの海外市場開拓を助けられるのではないかと期待したのだったが、結局これは期待外れに終わった。


当時の日本メーカーは、世界市場で今よりはもう少し元気だった。三洋はアメリカのスプリント向けOEMでサムスンとほぼ互角に戦っていたし、クアルコムの端末機部門を買収した京セラも、サンディエゴを拠点とする世界市場向けのオペレーションの拡大をまだ諦めてはいなかった。「写メール」で世界に名を馳せたシャープには、欧州市場での販売拡大が期待されていたし、NECもクアルコムとのそれまでの確執を解消して、中国市場で攻勢に出ようとしていた。


クアルコム本社での会議では、日本を代表する私は、先進的なアプリケーションの分野では出席者の興味を惹くような面白い話をする事が出来たが、チップ販売の実績となると韓国法人と比べて見る影もなく、いつも悲哀をかこっていた。だから、日本メーカーに頑張ってもらって、何とかこの事態を打開したかった。


しかし、GSMが圧倒的に強く、CDMAは値段を安くしなければ売れない「東南アジア市場の現実」を見せつけられた私は、「これは一筋縄ではいかない。端末機もアプリも、コストの感覚を根本的に変えなければならず、しかも、長期戦を覚悟して忍耐強く取り組まなければ、突破口は開けない」と感じた。そして、それ以来、日本の端末メーカーに対する過度の期待は捨てた。


一方では、昔懐かしい東南アジアにしばしば足を運んでいると、私には商社時代の感覚が戻ってきて、色々なアイデアも浮かぶようになってきた。トップから頼まれたMediaFLO(クアルコムが開発した携帯端末向けの放送システム)関連の仕事以外では、日本のことは次第に私の関心外になっていった。


(MediaFLOについては、「地上波サイマルキャストの無料ワンセグに、ロングテールを狙う有料のクリップキャストを組み合わせれば面白い」と考え、ワンセグとのワンチップソリューションも用意したが、当初考えた「2年内の周波数取得」が不可能と分かり、断念した。先行したアメリカ市場は、私の考えでは、先ず無料サービスでユーザーの認知を高め、それから徐々に魅力のある番組を選んで、Pay-per-viewでビジネスモデルを作っていくべきだったと思うのだが、マーケティングを任せた通信キャリアーが始めから高い値付けをしたので、結局ユーザーにそっぽを向かれる羽目になった。これは、ノキアが力を入れていて欧州規格のDVBHでも同じことだった。)


本業となった「東南アジアでの安価なデータアプリの流通」を考えるにあたっては、私は取り敢えずインド人の技術屋と組んで、「広告と連動した音楽アプリの流通システム」を作り、「全ての発展途上国での同時多発的マーケティング」を画策した。この為、私は社内の組織の壁を破って、担当外のインドや中南米にも足を伸ばした。担当の東南アジアだけでは、何をするにしても市場が小さすぎたからだ。当初はハードに拘ったが、そのうちにハードは何でもよいと割り切れるようになった。


(クアルコムを退社した後で聞いた話では、私達が開発したこのシステムは、インド、中国、メキシコではある程度売れたらしいが、もともとの目標だった東南アジア市場とブラジルは駄目だった由である。)


しかし、私の最終目標は、この程度のものではなく、「第三世代の携帯電話機を徹底的に低価格化して、発展途上国全域に行き渡らせ、最貧国にまでインターネット環境をつくり、世界規模でのデジタルデバイドを完全に解消する」という構想だった。


そうなると、もう日本にいる必要もない。ここで、私は、「サンディエゴに生活の拠点を移し、3-4年間そういう仕事に注力した上で、70歳で引退する」という生涯計画を定めて、日本の関係者にもそういう挨拶をして回った。



孫正義さんとの出会い (2005 - 2006年)


ちょうどその頃に、孫さんからまた連絡があった。「また」ということは、以前にも色々な話があったということだ。孫さんとは以前から面識がなかったわけではなかったが、具体的に声がかかるようになったのは、彼が「どうしてもモバイルをやりたい」と考え始めた頃のことだから、2004年頃だったと思う。


私は、「孫さんは何れにせよモバイル通信に何らかの形で入っていくに違いない」と思っていたので、「そうなるとクアルコムにとっては見込み客先になるから、丁寧に対応しなければならない」とは考えていたが、その時点では、まさか自分自身がソフトバンクに入社することになるとは夢にも考えていなかった。


しかし、孫さんの人柄にはすぐに魅せられた。志やアイデアは夢中になって語るが、全て本気であり、回りくどいことは一切言わない。目一杯の「大風呂敷」は広げるが、偉そうぶるところは全くない。(私は、偉そうぶる人が嫌いだったから、この点が特に心に響いた。)彼と直接の接点を持ったことのない人達の中には、彼の「変わり身の早さ」を嫌って、「信用出来ない」と評する人も多いが、実際に身近で接してみると、基本的には率直で誠実な人であることが分かる。


私の方では、「将来の見込み客」だと思うからこそ、呼ばれれば出向いて、色々と意見具申などをしていたわけだが、彼の方では始めから全く社員と同じような扱いで、何の分け隔てもない。とにかく、何事につけ「目標と定めたことをやり遂げる」事だけが彼の唯一の関心事であり、その他の事には殆ど気は使わない。


そのうちに、或る時、「この人は本当に大きなことが出来る人かもしれない」と私は思うようになった。それは、私が彼の最大の長所と考える「拘りのなさ」を垣間見た時だった。たまたま私が出向いた時、彼は社員を前に自分のアイデアを熱っぽく語っていたが、それは、一言で言えば、良いアイデアではなかった。私が、たまりかねて、彼が見落としていたポイントを指摘すると、彼はしばらく考えていたが、すぐに「そうですね。そうかもしれませんね」と言った。そして、その場で、それまで熱をこめて語っていたアイデアをあっさりと捨て、全く違う角度からの議論を始めた。


人は誰でも勘違いをする。しかし、自分の誤りにある程度気付いても、大抵の人は自分のこれまでの考えを捨てきれず、或いは面子に拘る。この為に、転進のタイミングが一歩遅れる。しかし、孫さんは一瞬の躊躇もしない。勘のいい人であることは間違いないが、それ以上に、事実関係の把握を重視し、理屈に合わないことはやらない人だ。


「幾多の困難を乗り越えて彼がここまでやってこられたのは、恐らくこれ故だろう」と、私はその時に感じた。「この長点がある限りは、これからも大きく転ぶことはないのではないか」とも思った。(これは後々になって分かった事だが、孫さんにすれば、根幹の「理念」や「ビジョン」に揺るぎがなければ、戦術的な細部は如何様にも変わってよいということなのだろう。)


そのうちに、孫さんから「重要な話がある」と言われて呼び出されたので、出向いて話を聞くと、「1.7GHzの携帯通信事業のライセンスが取れるが、この分野に経験のある人が見つからないので、あなたがCEOとしてやってみてくれないか」という話だった。「この事業の為には、この程度の金は用意する」という話もあった。


私は、実はその直前に、当時のボーダフォンの英国本社の社長からも、「日本法人の社長をやってみないか」と誘われ、「自分は既に歳をとりすぎているし、とても自信がない」と断ったばかりだったから、この話もその場ですぐにお断りしようかと思ったが、それではあまりに誠意がないので、「一週間だけ考えさせてください」と答えた。


私が一週間貰ったのは、口先だけのことではなかった。投資額を含め、「もしこの条件が整えば」という答えぐらいは出さなければと思い、現実に色々な面をチェックした。しかし、幾ら考えても勝算はなかった。「既存事業者に地方でのローミングを義務付けることが出来れば何とかなるのではないか」とも考えたが、当時ソフトバンクは郵政省を相手取って訴訟までしていたから、「旧知の郵政省の高官に色々なことを打診して反応を見る」という事さえままならない状況だった。


結局、私は孫さんに会い、「私には全く自信がありません。しかし、孫さんもやられるべきではありません。このまま強行するのは自殺行為に等しい。孫さんは何時の日かNTTを超えるという目標を持っておられると聞きましたが、一度死んでしまえば、もう二度と戦えません」と伝えた。孫さんは目を大きく見開いて真剣に聞いてくれたが、最終的に、「あなたの言うことはよく分かったが、やはり、どうしてもやりたいなァ」と言った。


「これをやらないのなら、どんな代替案があるのか?」と尋ねられたので、私はこう答えた。「いきなり自分で一から始めるのではなく、ボーダフォンのMVNOをやることから始められたらどうですか? ボーダフォンは今のままでは立ち行かないが、ソフトバンクの販売力を利用すれば何とかなる。そのうちに彼等はソフトバンクを頼りにするようになります。そうなると、合弁に持っていけるかもしれないし、買収できる可能性もあります。仮にそうならなかったとしても、その頃には既に販売実績が十分出来ているのですから、この時にあらためて免許を取って、自分で全てをやることにしても遅くはない筈です。」


私は、その頃、実はボーダフォンの本社に対しても、「ソフトバンクをMVNOにすべき」という提言をしていた。来日した本社の社長と面接した際に「今度のクリスマス商戦にこれだけの端末を用意した。日本法人の社長は『これは必ず売れる』と言っているが、お前はどう思うか?」と聞かれたので、「申し訳ないが、私は全く売れないと思う」と答えた。


びっくりして理由を聞く相手に、私は、率直に、「見たところ日本のユーザーが全く魅力を感じない商品ばかりだ。『徹底的に日本のユーザーの気持になりきる』という姿勢がなければ日本では勝てない」と伝えた。そして「その解決策は?」と畳み込まれたのに対し、「本社の顔色ばかりを見ている日本人に頼っても駄目だ。中途半端なことはやめて、日本生え抜きのマーケティングのプロ集団に委ねた方がよい」と言って、ソフトバンクとのMVNO契約を奨めたのだった。


(後述する様な色々な事情があって、私は生涯を通じてソフトバンクの為には殆ど役に立っていない。しかし、一つだけ大きな貢献をしたことにはなる。それは「待望の免許が取れた1.7GHzの周波数で私がCEOとなって事業化を進める」ことをきっちりとお断りし、孫さんにも事業化を断念する様に勧めたことだ。もし私が変な自己顕示欲にかられて「男の意気に感じて死に物狂いでやってみます」などと言って引き受けていたら、2−3年後には同時に同じ条件で免許を取ったイーモバイルと同程度の「期待外れの結果」しか出せず、ソフトバンクはその時に私を馘にしてももはや手遅れで、その後の大躍進の芽は完全に摘み取られてしまっていただろうからだ。)



断れなかった再度の誘い (2006年)


それから約一年が経ち、私はまた孫さんから呼ばれた。「あなたのアドバイス通り、二兆円の大枚を払ってボーダフォンを買った。私は命を賭けてこの仕事をやり遂げる。この仕事は、『日本の為に』自分がやらねばならぬことだ。やるからには必ず成功させて、日本を変えて見せる。あなたも日本人なら、アメリカの会社の仕事などをしていないで、日本の将来の為に私のこの仕事を手伝うべきだ」と彼は言う。私は「二兆円もの借金をしてボーダフォンを買うべきだ」等とは言った覚えはなかったが、心の中では、「ここまで言われれば、とても断れない」と覚悟を決めた。


その決断に至るまでには、勿論、心の中に葛藤が全くなかったわけではない。既に「これからはアメリカに本拠を移す」と言っていたのに、日本に舞い戻るような形になるのは、何となくバツが悪い。多少煙たがられていたとは思うが、昨日までの盟友であったKDDIの敵に回るのも、少し心苦しくはある。収入面から言うなら、この時点でクアルコムを離れることは、相当額に及ぶ筈の将来のオプション株の権利をドブに捨てることを意味するのだから、普通ならあり得ない選択だった。


しかし、私にそれを乗り越えさせたのが、私の心の中にずっと蟠っていた「人生の最後は、矢張り出来れば日本の将来の為になる事をやりたい」「NTTのような『組織防衛優先』の保守的な巨大企業が日本の情報通信産業の中枢にいつまでも居座っているのは、日本の将来の為に良くない」という気持だった。


その頃のKDDIはドコモに対して一矢を報いつつあり、自分もそれには若干の貢献はしたという気持はあったが、この程度ではどうにもならない。しかも、そのKDDIも、私の目から見るとやはり大企業的な気風に染まっているように見えた。これに対して、「孫さんのような人なら、或いは本当にNTTの牙城を突き崩し、日本の情報通信業界を全く新しいものにしてくれるかもしれない」という秘かな期待が、私の心の中に芽生えつつあったのも事実だった。そうなると、もうお金のことは問題ではなかった。


私は商社マンだったから、それまでに多くのビジネスマンや経営者を見てきたし、伊藤忠を辞めた頃には、「久慈毅」というペンネームで、「人」の要素を重視する読み物仕立てのビジネス書を何冊か書いた程だった。だから、人を見る目はあるつもりだった。その目から見ても、孫さんが類稀な人であることは間違いなかった。絶え間なく考え、即座に実行するエネルギーは、常人の域をはるかに超えていたし、何よりも構想が桁外れて大きかった。


こういう人に、「自分は何としても日本を変えたい。だからあなたも手伝え」と言われて、これを断って日本を離れてしまったとすれば、後々までそれを悔やむことになるかもしれないと私は思った。


当初の話では、私の仕事は「技術部門の統括」という事だったから、いくら孫さんから「あなたはちょっと手伝うだけでよい」と言われていても、相当の覚悟をせざるを得ないと思っていた。ナンバーポータビリティー(電話番号を変えることなく、通信事業者を乗り換えることが出来る制度)の実施が秒読みとなっていたその時点では、下手をすればソフトバンクはドコモとKDDIの二社の草刈場になり、市場シェアを伸ばすどころか、15%強しかなかった既存シェアまで奪われて、破綻の危機に瀕する可能性だってないとは言えなかった。


私の見るところでは、後発で規模のメリットが取れない上に、第三世代システム用に使える周波数としては、使いにくい2GHz帯しか持っていないソフトバンクは、ドコモやKDDIに対して大きなハンディキャップを負っていた。買っている端末も、KDDIに比べれば押しなべてコストが高かったし、今後のデータサービスの展開についても、「技術戦略」というものが見当たらず、「職人技」によって対処するしかない体制のように見えた。


その頃の日本のビジネスモデルは、毎日既存顧客から入ってくる日銭を使って、高価な端末を只同然の値段で顧客に売る「サブシディー(販売奨励金)モデル」だったから、既存顧客の数が少なく、これからシェアを伸ばさなければならない後発事業者にとっては明らかに不利だった。ソフトバンクがマーケティングに長けていることは知っていたが、「技術部門で徹底的にコストを切り詰めて、端末価格の設定に或る程度の自由度を与えなければ、いくら強力な販売部門があったとしても、手の打ち様がなく、会社自体が立ち行かなくなるかもしれない」と、私は心の底から危惧していた。


そこで、私は、「この仕事を引き受けるからには、自分は誰に何と言われようと、技術部門の立場から『コストダウンの鬼』になる。それ以外には、この会社が生き残る道はない。もうこれが人生で最後の仕事だから、人に憎まれても、返り血を浴びることになっても構わない」と、悲壮な覚悟を決めた。健康診断を受けると血糖値が高いと指摘されたので、「完全に禁酒して、自分で自分に厳しい食事制限も課する」事も決めた。病気で倒れたら何も出来なくなり、恥を満天下にさらすことを恐れたからだった。



早々と「脇役」に転進 (2006 - 2007年)


しかし、入社して二ヶ月もたたぬうちに、私はこの「悲壮な覚悟」をあっさりと取り下げてしまった。


と言うのも、ボーダフォン買収からまだ4ヶ月しかたっていなかったのに、既に社内の体制は相当固まっており、全てがソフトバンク流に(つまり、社長の陣頭指揮下で)進められていることが分ったからだ。「技術よりもマーケティングと販売を先行させる」社風も、良い悪いは別として、過去の実績に裏づけられた揺るぎないものであり、これに異を唱えるのが妥当かどうかも判断がつきかねた。(というよりも、「この時期にはその方が正しいだろう」という判断に、自分自身も傾いていった。)


誰が考えたのか、「割賦販売方式」という新しいアイデアも導入済みだった。この方式なら、既存顧客からの収入が少なくても、毎月の利益を犠牲にすることなく、顧客に安い端末価格を提供できる。「目からウロコが落ちた」というか、「コロンブスの卵」を目の当たりにしたような感じだったが、これで私の最大の懸念は解消された。現実に、当初の若干の試行錯誤の後で導入された「ホワイトプラン」と名づけられた価格体系は、巧みなTV宣伝と相俟って、瞬く間に顧客の支持を得た。


営業部門の「集中力」と「巧みさ」は想像をはるかに超えるものだったし、技術部門も想像以上に厳しくやっていた。何よりも感銘を受けたのは、徹底的に顧客の反応を意識したスピード重視の「対応力」だった。毎週の経営会議では、何事も中途半端には終わらせず、即戦即決で必要な手が打たれている。実力者の宮内謙副社長(COO)が、孫さんが苦手とする分野をきちんと補っているのも大きいと思った。


私の担当分野であるはずだった「技術戦略」という観点からは、「本来やるべきことがやれていない」という不満があり、苛立ちも感じたが、会社が当面ちゃんとやっていける限りは、これは「どうしても直ぐにやらねばならない」というものでもないかもしれないと考えるに至った。無理にやろうとすれば、あちこちで摩擦が起こり、プラスよりマイナスが生じる可能性もある。下手をして指揮系統が二重三重になれば、良かれと思ったことでも、現場に大きな負担と混乱を与えかねない。


結局、色々考えた結果、私は「無理に仕事はやらない」という道を選んだ。これは、当初の「悲壮感」とは正反対の極にある選択だった。


内心忸怩たるものがなかったと言えば嘘になるが、それが大人の判断だと思った。「本気で仕事をする」と言えば男らしく聞えるが、それは自分中心でものを考えた時のことで、「天の時」「地の利」「人の和」がなければ、「空回り」だけで済まず、全体としては実質的にマイナスが生じる恐れがある。流石に45年近くもビジネスの最前線に身をおき、いろいろなことを経験してきたお陰で、私にはそういうことはよく読めるようになっていた。


そこで、私は孫さんと話し、ソフトバンクの中での仕事についてはラインの責任は全て外してもらい、元々彼が求めていた「社長へのアドバイス」という仕事だけに徹することにさせてもらった。言い換えれば、「必要に応じて脇を固める」という程度の、極めて受動的な役割のみに甘んじることにしたのだ。


私はそれまでの数十年間、どんな立場におかれても、終始積極的に目一杯に行動してきたし、「結果に対して全責任を負う」という意識を持たずに仕事をしたことはなかった。だから、こんな事は生涯を通じての初体験だった。実際にそういう立場で仕事をしてみて、「こんなことをしていて本当に良いのか」と、相当複雑な心境になったこともある。しかし、そのうちに、「実は、これは、長年真面目に仕事をしてきた私に対して、天の神様が与えてくれた特別の『ご褒美』だったのだ」と思うようになった。


この様な気楽な(責任のない)立場での仕事は、或る程度の歳になれば誰もが求めるものだ。しかし、私のような性格だと、現実にはなかなかそうは行かない。孫さんのような「誰よりも早く、何でも自分でやる。それも徹底的にやる」という人の下でなければ、とてもこんな役割には甘んじていられなかった筈だ。


現実に、経営会議などでは、「もし誰も言わないのなら、自分が言わなければ」と思う事はよくあるが、こういう場合も、殆ど孫さんが先回りしてその事を言ってしまっている。殆どの事において、私と孫さんとは発想が驚くほど似ているとは思っているが、彼の方がパワーが格段に大きく、決断力や集中力(執念)も桁違いだ。思考や行動のスピードについてもそうだ。私も、それまでは、自分では「頭の回転も行動も相当早い方だ」と思っていたが、孫さんには遠く及ばない事を認めざるを得なかった。


彼の言う事には、私が「無理筋」と思うことも多々ある。しかし、「可能性が極端に低く。出来なかった時のマイナスがあまりに大きい」というもの以外は、私は特に反対しない事にしてきた。彼は、どんなに小さい可能性でも「徹底的に追求する前に諦める」のを大変嫌う。あらゆる可能性を洩れなく追求しようとするし、目標値は最後の最後まで常に目一杯高く保ち続ける。「放っておけば人は安易に流れ、低い目標で満足してしまう傾向がある」事をよく知っているからだろう。


こういうやり方については、「僅かな可能性も逃さない」という利点はあっても、仕事の効率は相当悪くなるから、私は必ずしも賛成ではなかった。しかし、孫さんは極めて勘のいい人だし、瓢箪から駒が出ることもあるから、強く反対するだけの自信が私にはなかった。私は若い時から上に迎合するのは大嫌いだったが、孫さんの場合は、不思議に、「ここで反対しないのは卑怯だ」と思うことが少なかった。


実は、今のこの時点で、「それでは、少なくとも、最低限、やるべき事だけはやってきたか?」と自問してみると、率直に言って、「少し不甲斐なかったのではないか」と思うところはある。例えば、ボーダフォンから受け継いだネットワークの弱さは目を覆うばかりだったから、「通信事業者の生命線であるネットワーク施設の充実にもっと金を使うべきだ」と、面を冒してまで進言しなかった事を責められれば、それについては一言もない。(尤も、会社は目一杯の借金を背負って発足したのだから、「グループの財務戦略の根幹を完全には理解していない自分が出しゃばって言えることではない」と思い、遠慮せざるを得なかったのも事実ではあったが。)


しかし、その時点でも、「まさかこんな仕事で高い給料を貰っているわけには行かない」ということだけは、私は少なくともきちんと認識していた。そして、認識したら必ず行動に移すのが私の信条だ。


そこで、私は孫さんと掛け合って、「給料の減額交渉」をした。私からは男らしく50%減を提示したが、受け入れられなかったので、その半分程度の減額で手を打った。「給料の減額交渉」等というものは恐らく前代未聞だろうから、その事が少し楽しくもあったが、それ以上に、それと引きかえに手に入る「自由」の方が貴重だと私は思っていた。



不完全燃焼の時間 (2007 - 2011年)


結局私は、入社翌年から取締役副社長を退任する2011年の6月までを、かなり漫然と過ごした事になる。しかし、結論から言えば、それでも結果的には大きな問題は起こらなかったので、「後で自分の無能と怠惰を激しく悔やむ」というような憂き目にはあわずに済んだ。


ソフトバンクに入社した時に私が心配した事は三つあった。


第一は、ネットワークの脆弱性、つまりソフトバンクの本来の狙いであったデータ通信の利用が大きくなった時にネットワークがこの負荷に耐えきれずパンクしてしまう事だった。これに対しては、私は極めて早い時点からWiFiでトラフィックをオフロードする事を提唱してきていたが、当時は世界の通信事業者でそんな事を考えているところはどこもなく、ソフトバンクの社内でさえ、理解を得られるにはかなりの時間を要した。しかし、やり出せば動きは速く、且つ徹底的にやるのがソフトバンクの強いところで、結果としてソフトバンクは現時点で世界随一の充実したWiFiシステムを運営していると思う。


第二は、大都市部でのネットワークのカバレッジの問題であり、特にビル内の対応が難しい問題だった。ソフトバンクはドコモやKDDIと異なり、大きなセルを構成出来る上に建物の内部への浸透性にも優れた800MHz帯の免許を持っていなかったので、本来なら却って開き直れる、即ち、外からビル内をカバーする事を最初から諦め、異なった方法を追求するべきである事は分かっていたが、ビルのオーナーは様々であり、これと言った決め手は最後まで掴めなかった。この問題は、今なお世界中の携帯通信事業者が抱えている深刻な問題だ。


そして第三は、端末の問題であり、これが当時としては最も大きな心配事であった。


日本は携帯端末に様々なデータアプリを搭載する事については、世界で最も進んではいたが、一つ一つのモデル毎に一つ一つ組み込みソフトを開発するやり方に固執していたので、ソフト開発費が恐ろしく高いものにつき、それが日本の携帯端末機が世界市場では全く売れない原因にもなっていた。この解決策は明らかで、携帯端末用のOS、又はOSに準じるものを作り、これを全ての携帯端末に搭載した上で、様々なアプリケーションのソフトウェアを誰にでも自由に作ってもらう事にすればよい。時あたかもLinuxが市民権を得つつあったので、先ずはLinuxのカーネル上に出来るものから少しずつ搭載していくしかないのではないかと考えていた。


しかし、そんな事は言うは易くとも行うは難い。それに膨大な開発費と時間がかかる。既に、潤沢に開発費を使えるドコモはこの方向に進んでいたし、逸早く各メーカーの端末の共通化を進めていた上に、クアルコムのBREWでBinary Runtime環境を広くソフトベンダーに提供する経験を積んできているKDDIにも、先を越される恐れが大きかった。「一体どうすれば、他社に後れをとる事なく、多くの機能を備えた高度な端末を安価且つ迅速に開発出来る環境が整えられるのか?」これを考え出すと、入社当時は眠れない夜が続き、時には絶望的な気持ちになる事さえもあった。


しかし、この劣勢は、アップルによるiPhoneの開発と、これに全てを賭けたソフトバンクの大胆な経営戦略のおかげで、結果的には完全にひっくり返す事が出来た。つまり、この関係で世界のトップを走っていたかに見えたドコモが、Limoと名付けられた新しい携帯端末用のOSの開発にもたついている間に、アップルは自社開発のiOSを搭載した画期的なiPhone端末を発表、世界の大勢を一夜にして激変させたのだ。


更に続いて、グーグルがAndroidと名付けられたOSを全世界の全ての端末メーカーに無償で提供する事を発表したので、世界の全ての端末メーカーは一斉にこれを利用する方向へと動いた。こうして、私自身を含め、日本の業界が色々に思い悩んでいた携帯端末のアーキテクチャー問題は、一気に異次元に進んだ。世界のプレイヤーのダイナミズムの前に、大胆な発想の転換が出来ず、或いはそのスピードが遅すぎた日本のプレイヤーの限界が、計らずも露呈されたのだった。


iPhoneについては、私自身は極めて複雑な感情を持った事を告白しなければならない。始めてこれを使った瞬間には、私は「ああ、ここまで作り込んでくれる会社が遂に出てきたのか」と驚嘆し、殆ど感極まった。しかし、この思いは、やがてじわじわと、言いようのない敗北感へと変わっていった。


思えば、その20年前、私はニューヨークでオフィス用の電話システムの為に色々な機能を考え、ここで惨めな失敗を犯した後も、何時の日かは日本メーカーと組んで、携帯端末でその雪辱戦を果たしたいと秘かに考えていた。しかし、何も出来ないでいるうちに、アップルはこの様な一桁も二桁も上の商品を作り出してしまったのだ。彼我の能力のあまりの違いに、私は言うべき言葉もなかった。


経営者としての能力についてもそうだった。私は若い頃から、いつも上を見て、「自分が経営者ならこうする」と考えながら仕事をするのが習い性となっていたし、後から考えて「自分ならもっとうまく出来た」と思う事も多かった。孫さんのやり方についても、勿論、自分自身の醒めた眼で批判的に見る事もあった。しかし、「ここぞという時の勝負の賭け方については、自分はこの人には遠く及ばない」という事を、この時にまた骨の髄まで思い知らされた。iPhoneという画期的な商品が出てきた時に、孫さんは一瞬にしてその可能性を看破し、迷う事なく、会社の全ての経営資源を一気にこれに賭けた。私ではあそこまで徹底した決断はとても出来なかっただろう。



国際業界団体への関与とネット社会への参画(2009年 - 2011年)


このように、本来の仕事であった筈の技術関係では、私は心の中に悩みを抱えるだけで、実際には何も出来ずに手をこまねいているだけの存在に成り下がっていたが、ソフトバンクの中には、私でも若干は役に立ちそうな「渉外関係」や「海外関係」の仕事もあった。特に、世界規模の携帯通信事業者の業界団体として急拡大を遂げつつあったGSMAでは、孫社長の身代わりとして私をボードメンバーにしてくれたので、ここではそれなりに活躍の場もあった。少なくとも、私が参加する前は殆ど発言する事もなかったアジアの事業者が、活発に議論をリードする様になったのは、私がもたらす事の出来た一つの進展であった様に思う。


競合する各社が一同に会して、共通の利益について語り合うこの様な場に参画する事は、私にとってもそれなりの刺激にはなった。しかし、それと同時に、「通信事業者のような巨大な企業体は、どうしても保守的な体質にならざるを得ない」という事も、嫌でも身につまされた。それも良い勉強と言えば良い勉強だった。


しかし、この様な仕事は、時にはたて込むこともあったが、基本的にはそんなに忙しいものではない。私はお金と時間を無駄にするのが嫌いなので、海外出張のスケジュール等はいつも相当ハードだが、この程度の事は昔に比べれば物の数ではなかった。だから、この間、「ご褒美で貰った」とも言えるこの相当に自由な時間を、私は自分でも気が引ける位気儘に使わせて貰った。対外的な言論活動もその一つだ。


ソフトバンクに入社するに当たっての私の期待の一つは、それまで自分の弱点として意識していた「インターネットビジネスへのより深い関与」だったが、その中でも「ネットメディアの成熟」が特に私の関心事だった。伊藤忠時代から情報通信関係のスポークスマンのような役割を担っていた私は、新聞やテレビといった既存メディアについてはよく分かっていたが、ネットメディアのあり方については、感覚的に全く理解出来ていなかった。


理解するには自分でやるのが一番だ。その観点から私はブログを書き出した。それも日記風の気楽なブログを書くのではなく、一週間に一度位の頻度でネット上に小論文を掲載し、場合によればそれをベースに「論戦」をする可能性も追求したいと考えていた。その後、硬派のブロガーとして人気のある経済学者の池田信夫さんの呼びかけに応じて、2009年の1月から、日本初のマルチブロガーサイトである「アゴラ」の立ち上げに協力することになった。


「アゴラ」の記事を書くに当たっては、会社に直接マイナスになるような事は流石に言えないが、「会社の立場をいつも代弁していなければならない」とは考えず、出来る限り「国」とか「ユーザー」の視点から語ろうと心掛けた。会社の広報部に気を揉ませない様には、それなりに気を使ったが、「いざとなれば、『ああ、あの人は問題があるので辞めて貰いました』と言えばいいじゃあないの」と、彼等には冗談を言っていた。


2010年の1月からは、孫さんの薦めに応じて、半信半疑でTwitterをはじめた。有名人である上に、お客商売であるソフトバンクの経営に全責任を負う孫さんが実名でTwitterをやる事には大きなリスクがあるが、それを敢えて始めた孫さんは矢張り只者ではないと思った。「超多忙の孫さんでさえやるのなら、時間の余裕もある自分はもっと真面目にやって然るべき」と思って始めた事だったが、やってみるとクセになる。ぶつ切りの短い時間を使えるTwitterは、一日十本ぐらい発信しても殆ど負担にならない。むしろ生活のリズムになり、気晴らしにもなる。ユーザーからの容赦ない批判の声が聞けるのは、仕事の上でも大変役に立つ事も分かった。


(これは後日談になるが、アゴラ向けの投稿は2017年を最後に断念したが、Twitterは年を経るごとに投稿数が増えており、おそらく死ぬ直前まで続きそうな気がする。歳をとるとTwitterが世の中と繋がるに一番良いチャンネルになるし、毎日耳に入ってくる色々な事象についての自分の考えをまとめるインセンティブにもなる。私の場合は全てを丁寧に「是々非々」で考えるし、できるだけ「状況を改善する為の具体案」まで考えるとにしているので、それなりにユニークなアカウントになっていると思う。)



再び「ネットワークの理想像」を考える(2010年 — 2011年)


「70歳で引退」というこれまでの計画を、2009年の11月に70歳の誕生日を迎えた時点で、一年だけ延ばしたが、その最大の理由は、「2010年中にNTTの構造問題にいよいよメスが入れられる」事になっていたからだ。そして、この問題は、孫さんが民主党政権に売り込んだ「光の道構想」と、期せずして一体不可分のものになった。こうなると、私もその事で少しは忙しくなるのが当然だった。


通信ネットワークについては、物理的な伝送路のところだけは全体のシステムから切り離し、「国家インフラ」という考えを導入するべきだと私はいつも考えてきた。そうしてこそ、徹底的に無駄を排した「計画的な建設」ができる。更に全国の津々浦々まで既に行き渡っているメタル回線を光ケーブルに一気に変えるという大胆な手法をとれば、NTTとしても「メタルと光を並行して保守しなければならない」という負担から解放される事になり、膨大なコスト削減が可能になると考えられた。


どんな分野でも競争原理を働かせればうまく行くと思っている人達は結構いるが、これは現実を知らないからだ。通信事業というものは、元々は国家が独占的にやっていたものなのだから、自由競争が可能なところでは、旧独占事業体に非対称規制を課してでも公正競争を実現すべきだし、競争が無理なところでは、その逆に、むしろ意図的に独占体制を維持して、その代わり透明性を徹底すべきだ。そうしなければ、物理的な伝送路というボトルネック施設を現実に寡占しているNTTのみが雪だるま式に栄え、実質的な競争が死に絶える危険性もある。


国のネットワークのグランドデザインは、「現在の電話回線を全て一気に光回線に敷き直す事を基本にして、その上に多種多様な無線網を配備する」という骨太のものでなければならない。間違っても中途半端なものを作ってはならない。そして、その上で動く通信システムが「コントロールされたIP網(NGN)」であるべきは当然の事だ。「放送」も「広義の通信」のエコシステムの一部とみなされるべきで、「ユーザーの為に何が良いか」という観点のみからその分担範囲が決められるべきだ。その為にも、NTTやその他の通信事業者、更にはNHKや民放各局、CATV事業者等が、「お互いの既得権を認め合って遠慮しあう」というような事態は、決して許してはならない。


大体こういう事が、当時私が考えていた事であり、ソフトバンクが提唱した「光の道」構想もそういう考えをベースにしているという点では同じだった。私はNTTの人達には何の恨みもなかったし、私の知っている個々の人達の能力と真面目さには、常日頃から敬愛措く能わざるものを感じていたが、常に「組織防衛」を第一義に考えているかのようなNTTの姿勢には、私は全く納得できていなかったし、将来の日本の情報通信産業の全てをそのようなNTTの手に委ねてしまうのでは、心安らかでいられるわけもない。そういう訳で、「光の道」論争が騒がしくなってくると、私の心の中でも、ずっと以前から蟠っていたNTTとの対決意識が次第に蘇ってきた。


しかし、結論から言うと、「光の道」構想は、プロフェッショナルな議論の場が設けられる前に、結論を出さねばならぬ期限が到来し、従って「実質的には殆ど意味のない結論」でその幕を閉じた。要するに「大山鳴動して鼠一匹も出ず」だった。進め方が短兵急に過ぎた上に、「民主党幹部の政治力」だけに頼るかの様なアプローチでは、所詮は無理だったのだと言わざるを得ない。NTTの持つ巨大な政治力は、そんな単純で粗雑なやり方ではとても突き崩せるものではない。(「光の道」のポイントは「光と銅線の二重構造による保守費の膨大な無駄を一挙に解消する」というところにあったので、これを本当にやればNTTが最も重視していた労務政策と真っ向からぶつかる。並大抵のことではNTTが折れる筈はないし、労組を基盤にする民主党が受け入れる筈もない。)


かくして、「NTT自身の考えやケーブルTV業界の考え等も公の議論の場に出して貰って、何が真に日本の将来の為になるかを皆で真摯に議論する」という「私が長い間描いていた理想の姿」は、結局は「夢の又夢」で終わってしまった。途中からは私自身も殆ど諦めの心境になっていたが、それでも、こうして終わってみると、不完全燃焼による心の傷は相当深く残った。



福島の原発事故がもたらしたインパクト (2011年 — 2012年)


6月末でソフトバンクモバイルの副社長を辞める事を決っていた2011年の3月に、東日本大震災が起こり、福島で深刻な原発事故が起った。これがなければ、私の晩年はもう少し違ったものになっていたかもしれないが、この為に私の心境には大きな変化が生じた。一言で言えば、副社長退任の9ヶ月後の2012年の3月には、「仕事を始めて丁度50年になるからもういいだろう」という理由で実業の世界から完全に引退する計画だったのを急遽取り止めて、更に5年間、身体が続く限りは働く決心をしたという事だ。


東日本大震災だけなら日本は十分立ち直れると私は考えていたが、原発事故については「その影響は計り知れぬものがある」と思わざるを得なかった。それを考える時に私の頭に去来したものは、「戦慄」という言葉が当てはまる程のものだった。この事故の「原因」とその「影響」を考えると、「日本はこれまでの原発依存によるエネルギー政策を根本から変えなければならなくなるだろう」と私は素早く予測した。もともと国債の過大な発行残高に危惧を持っていた私は、「エネルギー政策の破綻」がもたらすかもしれない「財政破綻」の可能性に恐怖した。


ここで大人達がしっかりしなかったら、孫達の世代にとても申し開きは出来ない。しかし、何をどうすればよいのかは全く分からない。私自身は「原発」には反対ではない。放射能が生命体に与える影響に恐怖を感じる事については私も人後に落ちないが、それは遺伝子操作がもたらすかも知れない破局と五十歩百歩のものだ。そして、人間は既に核技術や遺伝子工学を弄び始めてしまっており、もはや後には戻れない。「科学技術に取り組んだからには、決して逃げてはならない。逃げれば、誰かが過ちを犯すのを防げなくなってしまう。恐怖に打ち勝ち、あくまで真正面から立ち向かって問題を克服するしかない」というのが、私の基本的な考えだ。だから、「反原発」の動きが過激になって、日本から原子力関連の技術者がいなくなってしまう事を、実は私は何よりも恐れていた。


しかし、その一方で、孫さんの「原発」に対する恐怖心は本物のようであり、この為に、彼はかなり過激な「反原発」の姿勢を取った。どんな時でも抽象的な議論に終わらず、必ず具体的な代案を出し、これを直ぐに実行に移すというのが彼の真骨頂だ。だから、この時も彼は直ちに「自然エネルギー導入」の旗印を掲げて、大胆なメガソーラー計画等をぶち上げた。この頃は、私は既に副社長は辞めていたが、取締役会の一員としては残っていたので、かなり辛い立場に置かれた。社長の方針はサポートしなければならないが、親交のある大企業の幹部などからは、ソーラー発電の高コストを指摘されて、「日本の経済を破壊しようというのか」となじられた。


そんな時に、私はある人の紹介で東北大学の大見忠弘名誉教授とお会いする事になった。「太陽光発電に情熱をかけている孫さんは立派だが、今のコストではどうにもならない。2年間待ってくれたら、私がコストを3分の1に下げてみせる」と言っておられた由で、孫さんに会いたいとの事だったが、孫さんは多忙でとても会えないし、そのまま握り潰す訳にも行かないので、私が代わりに仙台まで出向く事にした。


大見先生にお会いしてみると、73歳の高齢にも関わらず情熱の固まりの様な方で、「現在の半導体製造技術が向かっている方向には科学の原理原則に反するものが多く、本質的に誤っている」と激しい事を言われる。半導体製造に不可欠なクリーンルーム開発の父と言われる「実績」に加えて、数えきれない程の「受賞歴」も持っておられる上に、過去10年間で文科省と経産省が何と総額400億円もの金額を先生の研究に注ぎ込んでいた事が分かった。こうなると、私も先生の言われる事を真剣に受け取らざるを得ない。しかも、この膨大な資金を使って、先生は民間企業が羨む様な高価な試験機等を自らの研究室に備えておられたのだから、これが役に立たないわけはないと私は思った。


半導体技術の本質的な問題はよく分からなかったが、シャープ等が手掛けていた「薄膜方式の太陽光発電システム」の光電子転換効率を3倍にして、生産性も上げるという大見先生の構想については、具体的な機器の設計も生産コストの計算も既に出来ていた。6億円程度の研究資金さえあれば、パネル製造を手掛けるメーカーが納得する様なサンプルを半年程度で作り上げてみせるとの事だったので、私も眼を輝かさざるを得なかった。太陽光発電システムの中でパネル自身のコストが占めるのは約半分程度だが、周辺システムのコストダウンには色々なアイデアが出てくる可能性は十分あったから、本当にこれが実現すれば、日照量の多い米国や中近東では、石油や天然ガスによる発電よりも安いコストでの太陽光発電が可能になる事を意味した。


私は元々「ドイツや北欧諸国のように環境意識の高い国が、国民の税金で自然エネルギーへと転換するのは、自己満足以外には殆ど何の意味もない」という考えだった。一部の先進国がCO2の排出を抑制したところで、中国やインド、ブラジルや東南アジア諸国といった「人口が多く、且つ国民の生活水準の急速な向上が予測されている地域」での自然エネルギーへの転換が進まなければ、地球規模で考えれば、実際には何の役にも立たないからだ。しかし、こういう地域では、太陽光等による発電コストが化石燃料によるものより安くならない限り、そんな事は簡単には起こらない。だから、自然エネルギー問題は「技術革新によるコストダウンの可能性」が問題の全てであると私は考えていた。


大見先生によれば、シャープ等による薄膜方式のエネルギー転換効率が低いレベルに留まっているのは、アモルファスや微結晶状態にあるシリコン化合物の中から水素原子が離脱し過ぎているからであり、プラズマ励起領域と反応領域を切り離して、全てのプロセスを低温で安定した状態に保てば、この問題は解決出来るとのことであり、「金属表面波という微弱な電波を使って広範囲に均一にプラズマを励起することを可能にした新しい設備」の能力に大きな期待がかかっていた。しかし、6億円程度の金が直ぐに手当出来なければ、この為の試験設備は導入出来ず、それどころか、研究所自体の運営が明日にでも行き詰まりかねないという状況だという事だった。


時あたかも民主党政権による「事業仕分け」が脚光を浴びている時代で、スパコンの開発資金も槍玉に上がっている状況だったので、国からの資金拠出はもう期待出来ない。「この様な構想が資金難の為に行き詰まっている」という事実を知る前ならよかったのだが、一旦知ってしまった以上は知らないふりをする訳にも行かない。そこで私は一大決心をする。「最早原発には依存出来ない」そして「自然エネルギー問題の抱える本質的なジレンマ(高コスト)は、技術開発(特に半導体技術)でしか解決出来ない」と考える限りは、「この構想の存在から眼を背ける事は、自分自身の存在意義を自ら否定するに等しい」と思い詰めるに至っていた。



いい歳をして、再び「手痛い挫折」を味わう(2012年 – 2013年)


そこで、私は孫さんと掛け合い、ソフトバンクだけではとても賄いきれないので、昔から親しかった古巣のクアルコムのCEOであるPaul Jacobs博士にまで頼み込んだ。このような「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と言ってもよい様な開発案件に人様を巻き込むのに、自分ではリスクをとらないというのは筋違い故、個人的にも身の程以上の拠出(出資)を覚悟した上、「生涯無償でこの事業の推進を引き受ける」という決意まで吐露した。


これには勿論別の背景もあった。大震災に際して、孫さんは自ら個人的に100億円を寄付して世の中を驚かせた。だから、私の個人資産は孫さんの1万分の1にも満たないにしても、私自身も「何かはやらなければならない」とは思っていた。そこで、「お金ではなく、リスクの負担と自分の時間を使う事で、自分としてもささやかながら貢献しよう」と決心した訳だ。「これで東北大学の名前を世界に轟かす事が出来れば、東北復興の一助にもなろう」という考えも、勿論その根底にはあった。


当然の事ながら、ソフトバンクの役員は全員反対だった。「そもそもソフトバンクは、その成り立ちからして、基礎技術に投資する会社ではない。松本さんは役員でありながらそんな事も分からないのですか?」という訳だ。私にすれば「グループの総帥である孫社長の反原発運動が経済界で不評なので、これに対して一矢を報いたいという意味もあるのですよ」と反論したいところだったが、そうも言えない。


結局は、自分でも恥ずかしい位の「ゴリ押し」で、不承々々認めて貰うしかなかった。クアルコムの方は「今後は半導体製造技術の方まで踏み込んでいくべきでしょうから、日本で最先端の研究拠点と繋がりを作っておいてもよいのでは」という大雑把な話だけで、何とか認めてもらった。それぞれ2億5000万円の出資だ。かくして「スーパー・シリコン・テクノロジー」という名前の新会社が、私が社長を引き受ける事によって、難産の上に設立された。


しかし、世の中はそう甘くはなかった。試験機を導入して悪戦苦闘する事半年あまりで、多くの推測に誤りがあった事が分かった。半年である程度のサンプルが作成出来れば、当時はまだ蜜月関係にあった台湾の鴻海グループの会長が個人的に出資していたシャープの堺工場にこれを持ち込んで、プロジェクトを次の段階に進める予定だったのだが、とてもその状態には程遠かった。「多くの問題を抜本的に見直した上で、更に一年から二年かけてやっとある程度のものが出来る」という状態では、資金はとても続かない。そもそもソフトバンクやクアルコムにはこれ以上は一切負担をかけないというのが当初からの約束だった


私とて、長年実業の世界にいたので、いくら「生涯をかけての国の為の仕事」と意気込んでいたからといっても、物事が期待通りに行かない場合のフォールバックプランを持っていなかった訳ではない。この場合には、この研究所が所有する300件を越える半導体製造関連の特許を切り売りして、2年間位は糊口を凌げるという計算はあった。(尤も、その為には、既に自民党政権が国立大学に対して拠出する事を決めていた産学連携の開発資金を獲得する必要があり、この為には一定の形式要件を整える必要があったのも事実だったのだが。)


しかし、ここで、考えてもみなかった更なる悲劇に私は見舞われる。この仕事を始めるにあたり、特に特許を切り売りして糊口をしのぐ事を想定した場合に、私が最も頼りにしていた田中信義さんが、68歳の若さで膵臓癌で急逝されたのだ。元々東北大学で半導体の研究をしておられた田中信義さんは、キャノンで専務まで勤められた後、退職して特任教授として東北大学に戻られていたが、政府の知的財産戦略推進本部の委員を務められる等、知的財産の分野では日本の最高峰におられた方だった。だから、私から特にお願いして、新会社の副社長になって頂き、特許戦略をお委せしていたのだが、この方を失ってしまっては、私だけで特許ビジネスをやっていく事は難しいと考えざるを得なかった。


一方、ソフトバンクの財務担当者に状況を説明すると、「ソフトバンクとしては、あくまで太陽光発電技術に対して投資したのであって、この会社が幅広く半導体技術を対象とする事は想定していない。それよりも、太陽光発電関係で当初の目論が実現出来る可能性が当面見出せないのなら、会社はすぐに全ての活動を停止し、残存財産を株主に払い戻すべきだ」との回答。こう言われれば反論は出来ない。クアルコムはソフトバンクの意向に従うという立場。その上、大学側も、今後の支援体制については一向にコミットしてくれず、「産学連携」の理想と現実のギャップは覆い隠すべくもなかったので、こうなると私には最早どうする事も出来なかった。結局、私は、涙を呑んで会社の解散を決定するしかなかった。


この間、私は眠れない夜を幾晩も過ごした。若い時に起こしたベンチャービジネスが破綻しつつあった時に見た悪夢の再来だった。結局、全ての成否は「技術的なアイデアの実現可能性」の如何にかかっていた訳だったから、その判断が甘かったと言われれば一言もない。「だから、言ったでしょう。松本さんもいい歳をして、相変わらず甘いんですねえ」と言われれば、只々恥じ入るばかりだ。


しかし、これも私の人生の一コマだったに過ぎない。結局は「これからは生涯を通して無償で国の為に働く」という誓いが、脆くも挫折したという事だ。自分の不明からソフトバンクやクアルコムに損失を被らした事に対する恥ずかしさと負い目を除けば、私にとっては、老後の蓄えの相当部分を一挙に失ったとはいえ、「只それだけの事」だった。



ソフトバンクの海外進出と自分自身の針路(2013年 – 2014年)


さて、「生涯、国の為に無償で働く」という誓いがもろくも崩れつつあった同じ頃に、私の回りでは異なった大きな動きも進んでいた。それはソフトバンクの海外戦略に関連する事だった。


ソフトバンクは元々日本に留まっている気などはさらさらない会社だ。日本で慣れない通信事業分野に進出し、格段の経験の蓄積と顧客ベースを誇るドコモやKDDIに挑戦するというのだから、少なくとも最初の5年間程度は日本市場での競争に専念せねばならないのは当然だが、市場シェアが確実に増えて20%を越え、なおも上位との格差を着々と縮めていく目処がたったその頃の時点では、海外に事業を拡大するのがこれまた当然の事だった。


大きな勝負手を一気に打つのが身上で、細かい布石の積み上げにはあまり興味がない孫さんとは異なり、私は「人があまり興味を示さない時に、分からないところで秘かに布石を打っておく」という様な仕事が好きだ。これは性格なのでどうにもならない。


この時点で私が眼を付けたのは、巨人インテルが技術開発と市場開発に躓き、インテルを信じてWiMAXという無線通信の新技術に大きな投資をしてきた人達を後に残して、早々と退場してしまった空白地帯だった。実はクアルコムで経験を積んできていた私自身は、当初からWiMAXの技術的な問題点はある程度分かっていた積りだったので、これが挫折した時には正直に言って「やはり自分の見立て通りだった」とむしろホッとしたような気持の方が強かったのだが、「WiMAXの挫折で宙に浮いた膨大な量の周波数をどうするのか」という現実的な問題を考えると、じっとしていられなくなった。


「何時でも何処でも電話ができるし、何処にいようともかかってくる電話を逃す事はない」という「只一つの超強力なキラーアプリケーション」のお陰で、「携帯通信というシステム(かつては自動車電話と呼ばれた)」はあっという間に世界中で膨大な市場を作り出したのだが、この頃になると「電話」や「ショート・メッセージ」の市場は既に世界中で飽和状態になりつつあり、これに代わって「何時でも何処でもあらゆる種類のインターネットサービスにアクセス出来る」という事に対する人々の欲求が、徐々に顕在化しつつあった。これこそ「パラダイムシフト」だった。


しかし、携帯インターネットとなると、これに必要とされる周波数の量は電話とは比較にならない。それだけの周波数を持てるかどうかが、これからの競争では成否を決める鍵になるのではないかと、私は考えていた。そうなると、これまでに世界中でWiMAXを対象に与えられた周波数免許の事を考えない訳には行かない。インテルから見捨てられた世界中のWiMAX事業者は(日本のKDDIを除いては)茫然自失して将来を見通せない状態だったが、時あたかも既存の携帯電話技術の延長線上で開発されていたTD-LTEという新技術を使えば、WiMAXと全く同じ周波数をもっと効率的に使える事が分かっていたから、私はそこに目を付けた。未使用のまま放置された周波数は遠からず国に取り上げられる。その前に手を打つ必要がある。急がねばならない。


しかし、周波数があるだけでは勿論事業にはならない。既に隆盛を誇っている既存の大手携帯電話事業者の一角に食い込むには、これまでになかったビジネスモデルを考え出し、強力なマーケティング戦略で新しい需要を引き出さなければならない。それはそんなに容易な仕事ではないが、それ故に私は久しぶりに闘志を燃やした。


たまたま接触のあったインドネシアのWiMAX事業者が、「事業の継続か断念か」の瀬戸際に立っていた事が分かったので、私はその事業を持つインドネシア有数のLippoグループの総帥と会い、孫さんに引き合わせた。二人は意気投合し、共同で新しい事業を進める事になったので、私は新しいビジネスモデル作成の鍵となる技術をあれこれと模索した。


しかし、その時に「米国第三位の携帯通信事業者であるスプリントを買収しないか」という話が米国の投資会社から突然ソフトバンクに持ち込まれ、孫さんは電光石火「米国への本格進出」を決めた。


こうなると、もうアジア諸国で小ぶりの通信事業にかまけているわけにはいかない。結局ソフトバンクの通信事業部門は、当面は脇目も振らず米国での事業推進に全ての経営資源を集中する事になった。インドネシアでの事業については、孫さんが先方に対して「この事業は成功すると信じているが、諸般の事情からソフトバンクとしての投資は出来ないので了承してほしい。後は松本と相談して欲しい」と伝えていた事もあり、私は自ら願い出て、個人の資格で、引き続きこの事業の成功を見極める道を選んだ。



スプリント買収と運営を巡っての大きな後悔 (2014年―2020年)


この項では、若干脇道に逸れて「回顧談」に類することを少しだけ書かせて頂きたい。


スプリント買収の話は突然持ち込まれたものだったが、私も意見を聞かれたので、即座に諸手を上げて賛成した。この会社の過去を私はかなり良く知っており、その数年前までは「最も近づいてはいけない会社」と位置づけていたが、この頃になると、少し異なった見方をする様になっていた。米国ではこのスプリントこそが前述のWiMAXの大きなプレイヤーだったからだ。彼等はシアトルに拠点を持つクリアワイヤーという小さな新興事業者がWiMAX用に取得していた最大で140MHz幅にも及ぶ2.6GHzの周波数のほぼ半分の使用権を長期契約で確保していた。これをフルに活かせば、ベライゾンとAT&Tという二大巨人に肉薄することも可能ではないかと考えられた。


私はその頃にはすでに副社長はやめていたが、なおソフトバンクモバイルの取締役会メンバーだったし、米国の通信業界を知ることにかけては誰にも引けを取らないと自負していたので、私なりに少し周辺を探って、基本戦略を提言する程度のことはやって、これを「退職の置き土産」にしたいという誘惑に抗し切れなかった。


しかし、周辺の状況が見えてくると、私は少し深刻に悩むことになった。単純にスプリントを買うのではなく、ソフトバンクにはもう一つの選択肢もある事がわかってきたからだ。「2.6GH帯の周波数を手に入れるには、まずクリアワイヤーを買収すれば十分であり、スプリントについては急ぐことはない。当時はまだドイツテレコムの100%子会社だったT-Mobileをまずは居抜きで買うシナリオもあり得る」と私は考えた。当時のT-Mobileは私とは旧知のドイツテレコムの幹部がCEOを務めていたが、米国での競争に疲れており、親会社も売れるなら売りたいと真剣に考えていることが分かったからだ。


最終的には、スプリントとT-Mobileは合併せねばAT&Tやベライゾンと対等に競争することはできず、米国政府も「二強二弱体制よりは三強体制の方が実質的な競争が促進できる」と認めてくれると思われたが、財務的にも政治的にも一度にそこまで行くわけには勿論いかないだろう。ということは、これは「どういう手順でそこにたどり着けば良いか」という戦略的な選択肢の問題だった訳だ。クリアワイヤーはWiMAXの没落後は見捨てられた様な存在だったので、日本の会社が買収しにきたとしても「何をトチ狂っているのか」と思われる程度で、誰もあまり気にしないだろう。当然買収価格も安くつく。一方T-Mobileはスプリントの様な公開会社ではなくドイツテレコムの100%子会社だから、水面下で両者が話し合って合意しておいて、クリアワイヤーの買収が完結した時点で表に出せば良い。


T-MobileはGSMとWCDMAで低所得層を中心に地道に拡販に励んでいる「面白くもおかしくもない会社」だったが、その分ネットワーク構成はすっきりしており、スプリントの抱える様な「CDMA音声をどう収束させるか」という難問もなく、運営は容易と思われた。ソフトバンクの最大の狙いであった2.6GHz帯の周波数免許は、当面はスプリントと「半分わけ」になるが、それでも大容量であることには変わりはなく、大都市に焦点を絞った高速データ通信サービスでAT&Tやベライゾンとの差別化を計るにはこれで十分だ。2.6GHz帯の利用は全米で選ばれた100程度の大都市における高速データユーザー向けのみに絞り、電話とは明確に切り分ける。これならば、まさにインドネシアでやろうとしていたこととあまり違いはない。


この体制で行くなら「優れたマーケティングの手腕を持つCEOをどうからどうやってスカウトするか(ソフトバンクは、日本でこそマーケティングの神様でも、米国では全く通用しないので、何れにせよこれは急務と思われた)」という問題のみを解決すれば、全てが相当の自信を持って進められると思われた。(果たして、T-Mobileは、それまでのドイツ人CEOに代えてマーケティングに卓抜した手腕を持つJohn LegereをCEOに起用して大成功を収めた。)


そこで私は、私自身で考え出したこの様な「米国進出戦略」を提言書の形でまとめ、孫さんに提出することを考えた。しかし、結論から言うと、私はその考えを途中で断念した。


断念した理由の第一は「当面は2.6GHz周波数をスプリントと半分ずつ分ける」という「一歩引いた考え方」を孫さんが受け入れるとは思えなかったことだ。(私も結構長い間孫さんの近くにいたので「やるのなら徹底的にやらなければ意味がない」と考える彼の気質をよく知るに至っていた。)第二は、大都市の高速データ網構築を本気でやるなら、自分自身で体を張ってやるしかないが、「すでに退社が決まっている自分がそれを言い出せば、立場も顧みず出しゃばっている(若い人達の邪魔をしている)と思われないか」という懸念があったことだ。孫さんは既に「これを機に子飼いの若い人達を国際的に活躍できる人材に育てていこう」と俄然意欲的になっていたので、私のようなベテランが「アメリカではそんなやり方では全く通用しませんよ」などと言って出しゃばると、不快に思われるかもしれないと私は恐れた。


そして、第三は、仮にそれが認められたとしても「本当に自分にそれをやり遂げる力があるか」と自問してみると、これにも自信が持てなかった。(年齢は争えないし、インドネシア向けの案件はすでにコミットしてしまっていたので、それと両立させられるかどうかにも懸念があった。)


結局のところ、私は「自分は既にソフトバンクを卒業してしまった人間だ。後のことまでくよくよ考えるのはもうやめよう」という安易な考えに落ち着いた。今にして思えば「意気地がなかった」という苦い思いは残る。その後ソフトバンクはそれなりにあれこれと努力したが、私が見るところでは、昔のままのマネージメントを2年間も温存したことや、「広範な課題を抱えたネットワークを大改造するという戦略」が概ね空振りに終わったことなどが祟り、さしたる業績を残すいとまもなく、最終的にT-Mobileに実質買収される結果となった。


因みに、孫さんから懇請されて途中からスプリントのCEOを引き受け、経営改善に大きく貢献したMarcelo Claure氏は、私とは因縁の深い人物である。ボリビア人のこの人はラパスの路上商人から身を起こし、携帯端末機のディストリビューターであるBrightStarを世界最大級の複合企業に育て上げた人物だが、バルセロナでの展示会場で私は単身彼に会い「日本に来て孫さんに会えば、必ず気が合って、大きなビジネスにつながる関係を作れるだろう」と持ちかけた。


この時点でBrightStarは中古iPhoneの取り扱い量では世界最大であり、一方日本ではそれまでは中古機を海外で販売するという発想は皆無だったので、「話はすぐにまとまり、ソフトバンクは他社に先駆けてiPhoneの下取りから高収益が得られるようになる」と私は踏んでいたが、望んだのはそれ以上のことだった。携帯端末のビジネスは万事に数量がものを言う。ソフトバンクの買取量だけではたかが知れているが、BrightStarの取扱い量を加えれば製造業社に対する発言力が大幅に増すことに、孫さんは興味を持つはずだと私は踏んでいたが、果たしてこの二人の出会いは、私の予想をもはるかに超える展開をもたらした。ソフトバンクはまずBrightStarの70%を買い、次にはこれを100%に増やしてMarcelo Claure氏をスプリントのCEOに引き抜いたのだった。



ジャパン・リンクで最後の挑戦(2014年 – 2021年)


何はともあれ、「ソフトバンクの海外(米国)戦略にはもうこれ以上深く関与はしない」と心の中で決めたことで、私の気持ちはすっきりしたものになった。この時点で、私はソフトバンクモバイルの副社長はとっくに辞めていたし、その一年後には取締役も辞めていた。しばらくは、特別顧問というタイトルの役員待遇で、執務室や秘書も使わせてもらっていたが、中途半端な立場で会社の中をウロウロしているのは良くないという思いもあり、伊藤忠をやめた時に創った自分自身の会社である「ジャパン・リンク」を15年ぶりに復活させ、2014年の4月からはオフィスも新しく構えた。ソフトバンクに対するシニア・アドバイザーというタイトルはキープしたものの、契約形態は雇用契約ではなく業務委託契約になった。前述のインドネシアの会社との個人契約もジャパン・リンク経由に切り替えた。


「ジャパン・リンク」は一応何でも出来る会社にはしたが、さすがにこの歳になると、コンサルタント的な仕事以上の事はできないと思った。「若い人達と語らって、インターネットがらみで新しいサービス事業を起こす(自らがベンチャー起業家になる)」等という事にも、なお魅力を感じないわけではなかったが、途中で自分自身が病気になったり死んだりしたら、一緒にやってくれていた人達に大変な迷惑をかけることになるので、これだけはやってはならないと自戒した。


しかし、コンサルタント業と言っても、私の場合はどうしても「真剣勝負」になる。私を頼りにしてくれた会社に対しては、何としても「結果を出す」事で報いたいからだ。そして、結果を出そうとすれば、その会社を「自分の会社」と考える事が不可欠だ。そうなると、何の事はない、経営陣の一角に入ったのと、精神的には全く同じ事になる。自分のアドバイスが悪い結果を招く事になれば、単に「恥ずかしい」では済まされず、長い間責任感に苛まれる事になる。


それから約半年で、ジャパン・リンクが結んだコンサルタント契約は、大小取り混ぜ合計9件になった。契約期間は一年前後のものが多いので、相手は毎年変わる。対象としては、殆どが長年やってきた携帯通信分野の仕事であり、相手は殆どが海外企業だった。スペインの大手通信事業者であるテレフォニカとの契約は、彼等が事業を展開している、スペイン、英国、ドイツ、および南米の殆ど全ての国が対象となったし、他の大中小の契約相手は全世界に広がった。


ソフトバンクを離れたとは言え、長年の恩義がある上に、アドバイザー契約も継続して貰っているので、ソフトバンクのマイナスになる事は出来ないし、出来れば「回り回ってソフトバンクの為にもなった」という結果が出せればとはずっと考えてきた。しかし、日本とアメリカを除けば、ソフトバンクと競合する可能性のある会社は少ないので、この事はあまり負担にはならなかった。何よりも、自由に発想し自由に行動出来る嬉しさは、かけがえのないものだった。


インドネシアの会社について、ソフトバンクが抜けた為に生じた投資額の穴を、私が考え出した「新しいビジネスモデル」を理解してくれた三井物産が埋めてくれた事もあり、ジャパン・リンクは三井物産とも契約を結んだ。久しぶりに世界の各地に拠点を持つ大商社と一緒に仕事をしてみると、やはり快適だった。伊藤忠を裏切ったというような気持ちは勿論全くなかった。伊藤忠は、昔は勿論当時もなお、通信分野ではNTTとの関係を中核においていたので、自分にとっては一番遠いところにいる会社だと割り切った。


こういう仕事を始めてしまった当初は、毎月の半分以上が海外出張で費やされた。やはり東南アジアが一番多かったものの、活動範囲は全世界に及んだ。サンパウロで仕事があれば、デュバイ経由にしてパキスタンと南アフリカに立ち寄るか、それとも米国経由にしてワシントンとサンフランシスコに立ち寄るか、最後まで迷う。テヘランに行った時には、旅費と時間がもったいないので、帰りにシンガポールとジャカルタでの仕事を入れた。一回の出張で五泊もしたのに、ホテルで寝られたのは二回だけ(あとは全て機中泊)というような強行軍もあった。


いい歳をして何故そこまで働くのかといえば、やはり仕事が好きだからなのだろうが、一種の使命感のようなものもないではなかった。特に携帯通信業界に関連しては、「自分以外には世界で誰もやらないだろう」と思われる仕事もあり、そういう仕事については、何とかして結果を出し、それを死ぬ前に自分の目で直接見たいという気持ちが抑えきれない。


それから、他のもう一つの理由もある。前述のように、私は、東北大震災の後に、「孫さんのように100億円は寄付できないが、自分の身体で払えるものは払おう」と思ったことがある。一生をかけて「半導体」と「産学連携」の為に無償で働こうとした決意は脆くも挫折したが、「少なくともあと5年は若者のように全力で働く」と公言した事は変えられない。


そもそも「日本の当面の高齢化問題は、高齢者がもっと働く事で当面は忽ち解決する(高齢者デノミ論)」と私は常日頃から論じていたから、「それなら、まず自分からそうするのが筋だ」と思うのも当然だった。出稼ぎ労働者よろしく自分が外国の顧客から稼いでくる「ささやかな外貨」などは勿論物の数にはならないが、10万人ぐらいの高齢者が同じ事をすれば、日本経済も少しは良くなるだろうと本気で思っていた。


このように言うと、仕事は全て順調で、私は毎日の仕事を楽しんできたと思われるかもしれないが、実際にはそんなことはなく、むしろ失意を感じることの方が多かった。それは全てがコンサルタントという立場でやる仕事だったからだ。どんなに熱意を持っていても、コンサルタントの仕事は戦略をアドバイスするだけで、実行には深く入り込めない。


例えばジャカルタでの仕事は、三井物産がソフトバンクに代わって出資者にはなったものの、持分は20%にすぎず、日常の重要な決定には口を挟めない(もしソフトバンクがそのままやっていたら持分は50%だった)。私は毎月ジャカルタに行って色々な方策を提案していたものの、その時はみんな頷いてくれたのに、次の月に結果を聞くと結局何にも手がついていないということがしょっちゅうだった。


狙いは正しく、ジャカルタ市内と周辺のデータユーザーのみに焦点を絞り、WiFiルーターで4Gモバイル信号を手持ちのノートパソコンやスマホに届けるという戦略は当たった。うまくいけば40万顧客程度はこの方式で取れるだろうから、それから4Gスマホを売れば良いと考えていたら、驚いたことに100万顧客を達成したという。ところが、何とこの見顧客数の70%程度が、販売助成金のおかげで半額以下で買えた端末を海外に転売する悪徳業者だったことが後に判明した。顧客の通信実績をチェックしていたらこんな事実はすぐに発見でき、被害を最小限に抑えられていた筈だったのに、そういうチェックすらしていなかったことがわかり、開いた口がふさがなかったが、既に手遅れだった。それでも、失敗は失敗としてこの特別損失を埋め合わせる資金手当をしていたら、事業計画はそのまま進められていたのに、親会社が断固としてそれを認めなかった為に、事業計画自体が破綻し、ネットワークが穴だらけになってしまった。この躓きがケチのつき始めで、その後も色々と常軌を逸した問題が起こり、結局この事業は破綻してしまった。


しかし、この事は、運営さえきちんとやれば「WiMAX用に取得できていた周波数をTD-LTEに転用して大都市周辺に展開する構想はうまくいく筈」という信念をいささかも揺るがすものではなかったので、私は同様の構想を他国で進める努力を継続した。バングラデシュ、ブラジル、アゼルバイジャン(カスピ海に面した旧ソ連の産油国)等が対象だった。しかし「ジャカルタの失敗の轍を踏まぬ為には、経営権を相手に任すわけにはいかない」となると「では誰が全責任を取るのか」という難題が重くのしかかり、すべての案件はうまく進まなかった。相手国の政府との交渉も本来は自分自身でやりたいぐらいだったが、コンサルタントの立場ではそうもいかない。結局この一連の努力は、何の成果ももたらさないままに、自然と終息を強いられる結果となった。



「Mobile Operator 2.0」構想 (2017年-2019年)


しかし、このような空回りの連続の中でも、私の「ネットワーク改革」の意欲は衰えなかった。発展途上国を中心に、厳しい競争を繰り広げているモバイルデータ通信分野で、新興企業が突破口を開くにはどうすれば良いかを考える事は、刺激的だった。結果として私は、「いつでもどこでも繋がる電話」を目指すカバレッジ確保は最初から念頭に置かず、大容量のデータ通信についても「固定環境下でなされるケースの方が移動環境下よりもはるかに多い」という事実を直視して、ただ同然で使えるWiFiをネットワークの重要な構成要素として取り込み、莫大な資本を必要とするモバイル網の建設は最小限にとどめるように心がけるべきだと考えるに至った。その代わりに、新興事業者は、顧客層ごとにSolutionを提供していくことこそを考えて、積極的に提案していくべきだとした。


Solutionなどという言葉を使うと、何やら新しいことのように思われるかもしれないが、これは昔から全てのサービス事業者が考えてきた事だ。要するに「こういう人達は、こういう場面では、こういうサービスがあればいいなと思うに違いない」と考えることこそが、全ての出発点であるべきなのだ。それなのに「多くの通信事業は世界中でほぼ例外なく独占ないしは寡占事業として始まった」と言う歴史的背景が影響してか、事業者が「こういうサービスをこういう価格で提供する(それに使われる技術は世界標準として決まっている)」ことを一方的に決めてしまう傾向がある。こんなことではユーザーには選択の余地があまり残らない。これは果たして正しい姿なのだろうかと私は自問した。


現実には、インスタグラムやユーチューブなどを常時楽しみたいユーザーは、既に独自の道を歩み始めている。低所得者層や若年層のユーザーは、常に無料(又は格安)のWiFiを求めており、モバイル通信事業者のサービスは「他の選択肢がない」時だけに受けるものだ(従って、多くの場合は我慢して使わない)と割り切り始めている。勿論、モバイル通信事業者の側では、こんな事は特に憂慮すべきこととは思っていない。「何時いつでも何処でもストレスなしにどんなサービスでも楽しめる」ことを求めるユーザー層が支払ってくれる高額の月極料金だけで十分に魅力的だからだ。しかし、もしユーザーが「通信料金込みのSolutionに対して月極料金を支払う」ことを望み出したら、状況は一変する。


私が提唱する「Mobile Operator 2.0」即ち「モバイル通信事業者のあるべき将来の姿」はこのソリューションビジネスでリーダーとなりうる事業者のことを指す。それは「それぞれのユーザーに寄り添い、彼等の真の望みを具現する」事業者であり、各ユーザーごとにそれぞれのTPOに従って選ばれる最適ネットワーク技術は「まちまち(heterogeneous)である」ことを許容する事業者でなければならない。これは明らかにパラダイムシフトだと私は考えた。


ネットワークがまちまちの技術から成り立つなどと言えば、一昔前なら多くの人があり得ないとして反発しただろうが、現在はもはや大きな問題とはならない。異なったネットワークに対応するチップを同じ端末の中に搭載させておけば良いだけのことだからだ。現実に現在のスマホには3Gや4Gといったモバイルネットワークに対応するチップだけでなく、WiFiやBlueToothに対応するチップも例外なく入っている。(WiFi技術もモバイル技術同様日夜進歩しており、最新のものは通信スピードでも5Gを凌駕する。)電話のほとんどはIP通信の一つのアプリと位置付けられつつあるが、ずっと以前から世界中に張り巡らされているGSM(2G)の通信網は今後とも維持して、バックアップにするのが得策だろう。これに対応するチップも当然全てのスマホに既に入っている。


通信ネットワークというものは、要するに各ユーザーの端末やIoT端末をクラウドにつなぐものである。その中間にエッジ・コンピューターというものが入ることもあろうし、クラウドまで行かずに端末同士が直接通信することもあるだろうが、それは些細なバリエーションに過ぎない。クラウドに直接繋がるのは例外なく光通信回線であろうが、その光回線がそのままユーザー端末に繋がるのは稀であり、殆どの場合はどこかで何らかの無線通信網に乗り入れるだろう。この無線通信網が「広域につながるモバイル(4G 5G)通信網」になるか「一定の狭い地域をカバーするWiFi網」になるかは時と場合によるだろう。(私は大体半々ぐらいになるのではないかと予測している。)低電力のITO端末は何らかのサブシステムで面倒を見てもらうことになるだろう。航空機や船舶の中や、地上でも過疎地域のような特殊な環境では、衛星通信が中継の役割を果たし、衛星端末を経由してWiFi等につながれるだろう。


ユーザーが支払う価格と密着する「 Solution」は大きく分けると「 Office」「Home(家庭)」「公衆環境(屋内)」「公衆環境(屋外・移動体)」に分かれるだろう。「屋内の公衆環境」は、学校、病院、ショッピングモール、スーパーマーケット、個人商店、コーヒーショップ、レストラン、ホテル、空港、鉄道の駅舎、劇場、スタジアム、等々の多岐に亘る。モバイル通信は元々は「自動車電話」と呼ばれていたことからもわかるように、固定電話や公衆電話が自由に使える屋内環境での使用は考えられていなかったが、その便利さ故に屋内での利用が次第に当り前になった。しかし、これまでずっとビット単価が相当割高についたので、高速データ通信についてはWiFiに道を譲ってきた。こうなると、仮に新しい技術でモバイルシステムのビット単価が飛躍的に安くなったとしても、その流れを逆転するのはかなり難しい。今後のheterogenous networkを考えるときにはそのことに十分留意する必要がある。


Office Solutionとは、突き詰めれば、パソコンやスマホをはじめとする「業務用に使われる全てのデータ端末機器」をどの様に各企業のクラウドにつなぐかということであるが、社員がOfficeの外で仕事をするとき(在宅勤務を含む)の仕組みを当然内包せねばならない。Home Solutionとは、「家庭で使われるテレビ、オーディオ・ビデオ機器、パソコン、スマホ、その他種々雑多な家電製品や家庭用システム」を如何に有機的に結合させるかということであるが、種々のコンテンツの流通システムと中立的に連動していなければならない。そのことを考えると、こういったSolutionの一括提供には、やはり既存のモバイル通信事業者が最も向いていると考えざるをえない。


時あたかも、モバイル業界では「5G(第五世代システム)」というものが華々しく宣伝される様になり、これが世の中を抜本的に変える(従ってheterogenous network等というものを考える必要もない)ということが無邪気に信じられる風潮が生まれたが、私には「また例によってこの業界特有のお祭り騒ぎか」という程度の感慨しかない。私は3Gや4Gが生まれた時に密接にこの推移を見守った経験があるので、どうしてもそういう冷めた見方しかできなのだ。


3Gが導入された時には「これからは電話が全てテレビ電話になる」と世界中の関係者が言っていたが、私はただ一人「テレビ電話などは流行るわけはないし、ネットワーク資源の無駄遣い以外の何物でもない。携帯電話機の画面上での画像品質が上がった時にこそ、3Gの価値は初めて認められることになろう」と主張した。結果は私の言った通りになった。4Gが導入された時には「これまでのFD方式ではなく、もっと高い周波数帯を使いこなせ、将来のあらゆる技術革新につながるTD方式こそが本命だ」と当初から主張していたが、果たして現在の5G技術は、TD方式の4Gの進化系と渾然一体で運営されるに至っている。


成程、5G技術の代表とみなされているMassive MIMOの技術は素晴らしく、画期的な通信の高速化(大容量化)を実現するが、これ以外にも技術は日進月歩で、特に「世代」という言葉で区分けされる必要はない。パラダイムシフトというものは、こう言った技術の日常の進化ではなく、Solution-orientedともいうべき、もっと異なった次元から考えられるべきものだというのが、私の変わることのない主張だ。


従って、本来なら、私は今こそ、この新しいコンセプトで業界のあり方を変える(そして、それによってユーザーの潜在需要を先取りする)先頭に立つべきなのだが、すでに歳を取り過ぎてしまった。新しいSolution businessを推進するためには、多くの機器ベンダーや、GAFAMの様な支配的な力を持ったプラットフォーマー、それに改革意欲を持った何社かの有力モバイル通信事業者の力を結集することが必要だが、もはや私にはその様な動きにきっかけを与える力さえもないことが明白だった。従って私は、このコンセプトの輪郭のみを後世に届けるだけで満足し、あとは状況を静かに見つめるしかないと思っている。



低軌道通信衛星会社 OneWeb の少し残念な顛末(2015年―2020年)


ジャパンリンクの活動として色々なプロジェクトを手掛けようとした2014年以降の私の行動の軌跡を語るにあたっては、やはり特筆しておかねばならないプロジェクトとして、低軌道衛星のプロジェクトがある。


事の始まりは2015年の夏だった。たまたま古巣のクアルコムのPaul Jacobs会長が、同社が技術開発の一環を担っていた画期的な低軌道衛星プロジェクトについてウェブ上に記事を出していたのが目についた。私は早速彼にメールして、この開発と運営のために設立されたOneWebという会社の詳細を教えてもらった。


何故私が低軌道衛星に特に興味を持ったのかには理由がある。前述の通り、20年以上前の「低軌道衛星ブーム」に際しては、伊藤忠の通信事業部長だった私は、軒並みに投資を競い合った業界の中でただ一人、全ての誘いを振り切って一銭の投資もしなかった。そのことについては色々な批判も受けたが、結局は私の見通しが正しく、どのプロジェクトも成功しなかった。当時全てのプロジェクトが狙ったのは「どんな場所でもつながる電話」だったが、その頃すでに地上の携帯電話網の急速な拡充が十分予測できていた私は、衛星でなければつながらない場所はきわめて少なく、その割には衛星システムはコストが高くつき過ぎると計算したのだった。


多くの人達は、周りが騒ぐと興奮し、周りが興味を失うと自分も興味を失う傾向があるが、私は逆だ。「人のいかない山道にこそ最も美しい桜が咲いている」と考える癖がある。だからその後も、究極の僻地向け通信システムである低軌道通信衛星の可能性に興味を失ったことは一度もなかった。調べてみると、この会社の狙いは高速・低遅延(40msec以下)のデータ通信で、衛星と打ち上げのコストは20年前とは比べ物にならないほど安くなっていることがわかった。しかも、この会社は、この種の通信用に確保できる広帯域の周波数としては唯一無二と言っても良いKu-band(12-14 GHz)の世界免許をITUから取得済みという。(これ以上高い周波数だと強い降雨時には使い物にはならない。)


今やデータ通信に必要とされる周波数帯域は音声用と比べると一万倍にも十万倍にもなる。36,000kmもの彼方にある静止衛星では、遅延が大きすぎてインターネット通信には向かないし、アンテナ径も小さくできない。4Gだ5Gだと囃されて、モバイル通信システムがいかに隆盛を極めようと、海上や僻地まではカバーできない。その一方でデータ通信に対する需要は想像を絶するほどのスピードで日々増大している。今や発展途上国の若者達でも数週間から数カ月もの間SNSが使えないとなると「それだけは勘弁してほしい」と言いかねず、全ての国の水産会社や海運会社は乗組員の確保に苦労し始めている。世界中のいたるところに鉱山や農産物の集散施設、工場や販売・サービス拠点を持つ多国籍企業も、これに劣らず大きな潜在需要者だ。彼等は、各拠点での生産や在庫の状況をリアルタイムでクラウドにあげて事業計画を無駄なく遂行する必要があるが、これらの施設が通信網の未整備な途上国にある場合は、これが極めて困難になっている。要するに「このプロジェクトは必ず成功すると信じるに足る十分な根拠がある」と私は思った。


更に私を魅了したのは、低軌道衛星は嫌でも地球全体をカバーする宿命にあるという事実だった。高速データ通信サービスは、需要者に金がある場合はいくらでも高く売れるが、需要者に金がなければ、如何にニーズが高くても、思い切った低価格にしなければ売れない。つまりTPOで値段に10倍以上の格差をつけなければ、衛星がアフリカやシベリアに上空にある間は一銭も稼ぐことができないということになる。ということは「値段は需要者が支払える金額」という原則を確立するしかないということであり、そうなると「アフリカやインド亜大陸の全ての村の子供達にも先進国の子供達と同じレベルの教育を提供する」という夢のようなプロジェクトも、一握りの篤志家の協力さえ得られれば、商業ベースの中で実現することが可能になる。私はこの夢にも興奮し、ロンドン在住のタンザニア人と一緒に具体的な計画の骨格を練るまでになった。


しかし、如何に希望に満ちたプロジェクトでも資金が集まらなければ何も始められない。私は自ら働きかけてOneWeb社とコンサルタント契約を結び、日本と東南アジア・大洋州(シンガポール、マレーシア、インドネシア、タイ、フィリピン、オーストラリア)での出資者探しを始めた。日本では、当初はソフトバンクより古巣の伊藤忠がなおリーダーシップの一角を握っているJSATにより大きな期待をかけた。JSATは世界第5位の衛星通信事業者であり、静止衛星と低軌道衛星の連動サービスの必要性も理解していたから、彼等が日本の衛星会社からアジアの衛星会社への脱皮を決意さえしてくれれば、可能性は大いにあると踏んでいた。


ところが、ここで私は、久しぶりに孫さんの驚嘆すべき直観力と決断力に舌を巻くことになった。2016年の8月にやっとの事で孫さんの時間を2時間貰ったが、私が話を始めてから30分も経たぬうちに、孫さんはこのプロジェクトの核心を瞬く間に理解した(当初はどちらかといえば否定的だったが、一旦ポイントをつかむと一気に理解が進んだ)。結果として、数日後にはOneWeb社の創業者でCEOのGreg Wyler氏を日本に招き、その場で同社の実質的な経営権を握るに足る巨額の投資をコミットするMOUに署名した。孫さんの希望もあり、OneWeb社はこれ以降は出資者を探すことをやめた。正式な契約は同年の12月に交わされた。


ここまでは順風満帆だった。さすがは孫さんで、このプロジェクトの成否は如何にサービスを売るかにかかっていると見抜いた様だった。そして、このプロジェクトに賭ける限りは、セールス・マーケティングは他人任せにせず、ソフトバンク自らでやらねばならないと覚悟した様だった。これは完全に私自身の考えと一致した。衛星通信の分野は元々極めて特異で閉鎖的な分野で、この分野に関係している人達は、大きなエコシステムの中の一部として自らの役割を考えるのではなく、唯我独尊に陥る傾向があった。私はそれを伊藤忠時代のVSATビジネスでも痛感したし、20年前の低軌道衛星ブームの中ででも学んでいた。


私の見たところでは、この仕事を成功させるためには、新しいマーケットでの新しい使われ方を新しい方法で開拓する必要があり、これは経験値の低い人や、一定のマーケットでの先入観にとらわれた人には無理だ。主たる販売チャンネルは、航空分野や軍事分野を除けば、世界各国のモバイル通信事業者の法人部門であり、僻地にある金持ちの別荘や、キャンピングカーやレジャーボートといった特殊分野では、同じ事業者の消費者部門も使える。その上、彼等ならそれぞれの国で政治力もあるし、僻地の基地局のバックホールとして、自社用にもある程度使って貰える。


従って、WiFiルーター付きの安価でメンテフリーな小型アンテナの供給体制にさえ目処をつければ、私には少人数のチームで短期間に世界中で強力な販売ネットワークを構築する自信があった。しかし、最も難しいのは、限られたキャパシティーを一定のルールで階層化された各ユーザーに割り当てる仕事と、複雑で柔軟な価格体系の策定だった。これには「営業現場も理解できる第1級のシステムアーキテクト」が必要となるので、この人選は一筋縄ではいかないと覚悟はしていた。


そこで、私は一大決心をし、「自ら手を汚して陣頭指揮をするので、この仕事を自分に全面的に任せてほしい」と孫さんに申し入れ、快諾を得た。私は、伊藤忠時代には直接衛星放送(スカパー)のプロジェクトで、クアルコム時代には日本における3G展開で、それぞれ世の中の流れを変える仕事ができたが、このプロジェクトを成功させれば、ソフトバンクに関連しても同じレベルの仕事ができたことになり、バランスの良い形で自分自身の仕事人生を終えられると密かに期待していた。


しかしながら、そこから全てが暗転した。まずソフトバンク内部でこのプロジェクトの数字面での責任を持つ立場にあった事業管理(財務)部門が「松本さんのやり方ではOneWeb社内が反発する恐れがある」と言い立てて、私の進めたい人事にまで干渉してきた。これだけ難しい仕事を遂行しようと思えば、勿論「強烈な独裁的リーダーシップ」が不可欠だから、私はあまりのバカバカしさに言うべき言葉も失ったが、実は同時にもっと深刻な問題が生じつつあったので、強引に事を進めるのは躊躇せざるを得なくなった。


それは、この事業の創業者であるGreg Wyler氏との確執だった。彼は革新的なプロジェクトを強引に進める野心的な若い起業家の典型で、私も当初は極めて良い関係を楽しんでいたが、そのうちに彼の大きな問題点が徐々に露呈してきた。当初から彼が言ってきた事にかなりの粉飾があったことが露営されただけでなく、言動が極めて不安定で揺れ幅が大きく、技術的にも辻褄の合わない非現実的なプランを平気で孫さんに売り込み出したので、私はついに「彼を外さなければこのプロジェクトは必ず破綻する」と考えざるを得なくなった。当初からの主要株主だったクアルコムのCEOやインドの通信事業者Bhati Airtel社の会長も私と同意見だったが、時すでに遅く、孫さん自身が彼を信じ切ってしまっていたので、これは勝てない勝負だった。(良くも悪くも若い起業家を盲目的に愛しすぎるのが孫さんの最大の問題の一つだと私は思っている。)


この為、私の営業面での陣頭指揮は3ヶ月で終わり、私はこのプロジェクトへの直接関与から身を引くことになった。痛恨ではあっては、「まあ、半年もすれば、孫さんも周りの人間も、色々な事が分かってくるだろう」という安易な思いもあって、しばらくは様子見を決め込んだ。しかし、結論を言うなら、孫さんは以前に比べれば少し忙しくなり過ぎていた様だ。一年半もの間は何の進展もなく、OneWebはいつまでたっても数字で裏付けられた利益計画を作り出す能力を欠いていた。それどころか、自社営業は無理と考えたのか、「一定のキャパシティーを誰かに不見転で引き取って貰い、これを前提に銀行から融資を受ける」という誤った戦略を惰性的に続けるばかりだった。


2019年の初頭には、旧知のMarcelo Claure氏がソフトバンクグループのCOOになったのを機会に、私もアドバイザーの立場で若干はOneWebの活動に関与することになったが、所詮アドバイザーでしかない。その一方で、米中関係が抜き差しならぬものになり、中国に関連する市場(全世界市場の20%程度?)はほぼ全面的に諦めなければならなくなった上、このままでは、共にロケットの製造会社であるElon Musk氏のSpaceX社と Jeff Bezos氏のBlueOrigine社との3社が鼎立して、限られた自由世界の市場を分け取りしなければならない状況になりかねず、 OneWebの将来はかなり不透明になっていた。こういう状態では、OneWebに投資をしようなどという会社が出て来るわけもない。そうこうしているうちに手持ち現金は底をつき、2020年3月にはOneWebは遂にChapter 11を申請した。同時に、私の最後の夢もまた儚く消えた。


(しかし、このプロジェクトには後日談がある。当初からの出資者だったインドのBhati Airtel社が英国政府党を巻き込んで会社の債権に乗り出し、ソフトバンクも30%程度の株主として復帰した。相当数の衛星は既に打ち上げられており、世界各国で法人顧客の引きもかなり出てきている様なので、何とかものになるのではないかと期待している。)



晩年の関心事 (2017年― 2022年)


結局、ソフトバンクを退職した後も「通信の世界で何か意味のあることをやろう」と考えた私の意欲は、概ね空回りに終わった。年を経るごとに持病の腰痛(脊椎狭窄症)はひどくなり、休み休みでないと長時間歩くのもままならなくなった。大学を出て仕事を始めてからちょうど60年の節目に当たる2022年の3月までは一応仕事は続けたかったが、実業への関与は程々に留めようと腹を決めた。そこへコロナ禍が襲ってきたので、丁度よく踏ん切りもついた。


その間に、私の技術的な興味の対象も「通信」から「コンピュータサイエンス」に大きくシフトした。「人類の文明の流れ」と「今後の社会(政治)あるべき姿」について深く考える様になっていたので、興味の対象は「AI(人工知能)」「サイバーセキュリティー 」「ブロックチェーン」「量子コンピューター」などに集中する様になった。基礎的な知識すらないところからの出発なので、表面を撫ぜる以上の理解は難しかったが、これらの技術と社会や政治との接点については、誰よりも深い洞察が出来るという自負はあった。


AIについては、考えれば考える程その深い意味に肉薄でき、「これは人類の歴史を全く異なった次元へと移行させるものだ」という確信を持つに至った。学者たちの間でも意見の分かれるSingularity(AIが幾何級数的に自らを進化させていくに至る技術的転換点)の実現についても、私は一点の疑いも持たなかった。また、AIの将来について深く考える多くの人達が「デストピア的な発想」へと陥りがちなのに対し、私は「人類はおそらくAIを完全に制御できる」「AIによってのみ人類は滅亡から救われる」という極めて前向きな考えを持っていた。この様な考えをまとめて世に問う為に、2017年の7月に私は「AIが神になる日(シンギュラリティーが人類を救う)」という本を出し、2019年の春にはこの英語版と中国語版も出した。


今後、あらゆる企業において、AIを導入することによって、サービス企画、商品開発、販売の各分野でブレイクスルーを実現しようとする動きが出てくるだろうが、そういう局面で特に私が貢献できることはない。私が注目したいのは「どの様にすればAIがあらかじめ組み込まれたmoral codeから逸脱しない様にできるか?」「どの様にすればAIは種々の言説の矛盾を衝きフェークニュースを排除できるか?」「どの様にすればAIは複数の政策的選択肢の優劣(得失)を計数化できるか?」等々の問題である。突き詰めれば「AIを駆使することによる理想的な政治の実現」こそが、私の最終目標だとも言える。


一方、学問的な興味からいえば、「AIがアインシュタイン博士の様な能力を身につける為にはどうすれば良いか」ということがある。その為には、アインシュタイン級とはいかなくても、いわゆる天才と呼ばれる人達が「閃きを得る」メカニズムを解明することが必要だ。おそらくは「こういう人達の脳には、一定の問題の答を得たいという強い欲求が常時居座っていて、生まれながらにして備わったテンションフリーの脳の論理回路に、同じ脳内に蓄積されている膨大なメモリーをランダムにスキャンさせ、不特定多数の事象や論理の膨大な組み合わせの一つが、偶然これに引っかかるのを待っている」というメカニズムがあるのではないかと私は思っていたので、どこかでこのメカニズムを再生させるプロセスについての手掛かりが得られないものかといつも考えている。


その頃、私は、遅れている日本のアジャイル型のソフト開発能力の嵩上げを図りたいという気持ちから、IQが高い人達を発掘してその人達の就職や転職を助ける「高IQ者定支援機構(HIQA)」という一般財団法人をなけなしのポケットマネーを拠出して設立したが、財団設立の動機の一つとして「この財団の運営を通じて天才型の人達との交流が深まれば、この問題に対するヒントも得られるのではないか」という密かな期待も秘められていたのは事実だ。


量子コンピューターに対する興味は、AIに興味を持ってしまい、Singularityの到来を確信してしまったからには当然の帰結だ。どう考えてみても、現在のコンピューターの能力ではSingularityは夢のまた夢と考えざるを得ない。少なくとも、現在の1000倍程度の能力は必要だろう。量子力学は基本を理解するだけでも至難の技だ。しかし、将来の医学の鍵を握る「生物のメカニズムの解明」の為にも量子力学は必要不可欠のようだから、この分野には今後世界中のトップクラスの秀才や天才が結集して来るだろう。AIのアプリでも、今後「概念(曖昧な概念も含む)」ベースの論理回路が必須になれば、量子力学の理解がなければ何もできなくなるだろう。


サイバーセキュリティーについての興味は、一人の日本人として、経済安保上の深刻な懸念から生まれたものだ。「日本のサイバーセキュリティー体制は、北朝鮮のプロ集団から見れば赤子の手を捻るようなもの」という事を知ってなお安閑としていられる人は、よほど危機意識の低い人だろう。私の場合は、たまたまあるきっかけから、ロシアの強烈なサイバー攻撃から国のシステムを守り切ったエストニアのプロ集団との繋がりができたことから、この分野に関与することができる様になった。近い将来、量子コンピューターが実用化される時代になれば、現在の暗号化システムの殆どは使い物にならなくなるが、その場合はセキュリティーはどのように守れば良いのか? こういう課題も今から考えておかねばならないので大変だ。


ブロックチェーン技術や、これと深く関連する「仮想通貨ビジネス」については、現時点で私は殆ど何も知らない。しかし、私は、中国は「人民元で下支えをする仮想通貨」で東南アジアやアフリカ諸国の経済に深く関与し、国際的な基軸通貨としてのドルの力を弱め、宿命的な米中対決の最後の切り札にする戦略を取るだろうと睨んでいる。従って、この技術をベースとした今後の色々なビジネスの展開についても、私も無関心ではいられない。



人生でおそらく最後のドタバタ (2019年)


エストニアとの関係は、たまたまソフトバンク時代に私のところへ東北大学のソーラー発電技術の話を持ってきて、新しく設立した会社で一年間アシスタント的な仕事して貰っていた若い人(X氏)から頼まれ、彼が設立したソフト会社の顧問を務めたことから生まれた。エストニアには多くの有能なエンジニアがおり、電子政府システムや高度な個人認証システムに裏付けされた金融システムでも世界最高峰にある。このX氏は、たまたまエストニアで開発された携帯電話機のSIMカードに関連するサービスの日本での販売を手がけていたので、多くの日本人がまだエストニアという国に注目していなかった時点からこの国の政府の要人達に顔を売れたのが彼の稀有の幸運の始まりだった。


X氏は米国の大学でマーケティングを学んでいたので英語もでき、もともと大風呂敷を広げるのが得意なタイプだったので、これが初期における彼の成功につながった。エストニアの電子政府システムの中核だった「異なったプラットフォームの間で機密情報の移転」を日本に導入することを彼は思い立ち、このシステムをエストニアの民間会社からライセンスして東京海上日動で実証実験をする直前にまでにこぎつけた。


しかしここで資金が切れ、もはやこれまでかと思われた時に救ってくれたのが、私が彼に紹介した孫正義さんの実弟、孫泰蔵さんのインキュベーションファンドだった。このファンドが拠出してくれた1億円のおかげで、彼の会社はエストニア人の技術者を雇うことができ、実証実験を成功させた。彼の持ち前の大風呂敷的な弁舌もこの時点では大いに役立ち、MUFG、凸版印刷、三井不動産といった大手企業が軒並みにこの会社に興味を持った。安倍首相のエストニア訪問時には、日本人としては唯一その時点で実際にこの国のIT業界と緊密に仕事をしていたX氏は、日本とエストニア両国の首相に挟まれてスリーショットの写真に収まるという幸運にも浴した。こういうことは、大手を巻き込んだ金融システムや電子政府プロジェクトにも関連する新しい会社にとっては大いに役に立つ。


しかし、結果としては、これがX氏のビジネスキャリアーを完全に壊してしまう結果にも繋がったのは運命の皮肉としか言いようがない。MUFGを筆頭に3大メガバンクを含む大手9社のトップが次々に壇上に上がってこの会社への期待を表明する一大プレスイベントを成功させた彼は、その流れでMUFGと凸版印刷の2社から何と総額21億円の投資を「金は出すが口は一切出さない」という「SAFEというシリコンバレー生まれの特異な方式」で獲得することに成功した。得意の絶頂に立ち「自分がビジョンを語れば、金なんかはいくらでも集まる」と思ってしまった彼は、持ち前の大風呂敷を更に広げ、実際の開発計画も販売計画も何も固まっていないにも関わらず、更に数百億円の出資を獲得するのだと息巻き、会社買収を中心に、やみくもに会社の規模だけを広げる戦略に狂奔し始めた。


しかし、砂上に描いた楼閣がいつかは簡単に崩れ落ちるのは自明の理だった。この会社は、それから一年も経たぬうちに、虎の子の24億円の出資金の大半を失い、なお事業計画さえ作れていなかった。しかも、既に妄想の世界に入り込んでしまっていた創業社長のX氏は、悪名高い詐欺師をそうとは知らずに経営企画室長に迎え入れ、某大手企業が100億円の出資金をすぐにも払い込むというこの男の根も葉もない話を信じ込み、この会社の誰にも彼自身は一度も会うこともなく、2ヶ月以上にわたって騙され続けて、この資金を当てにして全ての計画を推し進めてしまっていたのだ。これは実業の世界ではちょっと前例もない様な唖然とする様な出来事だった。


私自身もあまり偉そうなことは言えない。重要な(非常識な)事についてはツンボ桟敷に置かれていたとは言え、一応はこの会社の顧問として名を連ねており、その間ずっと「あの男がここまで成長したのか」とか「世の中は変わったとは言えこんなにも安易に新興会社に金が集まる時代になったのか」とかいう一種の感慨に浸っていただけだったのだから。


しかし、詐欺事件が発覚し、このままでは会社は数カ月も持たないということが明らかになった時点で、さすがの出資者も黙っておられなくなり、経営の刷新を求めてきた。ある程度技術がわかり、エストニア人達と普通にコミュニケートでき、X氏を抑えることができる(かもしれない)のは、衆目の見るところ、残念ながら私ぐらいしかいない。孫泰蔵さんに対する責任もあり、私も逃げるわけにはいかなかった。結果として、私は「経営の全てを任せてもらう」という条件で、代表取締役会長職を引き受けた。


これから後はほとんど漫画の世界だった。私は生れながらの「お人よし」だったのかもしれない。経営責任を取れば全従業員に対して責任を持つ。それからまるまる三ヶ月の間、私は久しぶりに修羅場に身を置く経営者としてこの会社の再建計画に没頭した。深く入ってみると、長い間放漫経営に毒されてきた会社の内容は、表面に見えていた以上に悪かった。X氏に期待して育てようとしてくれていた大手企業のトップの多くは、もはや彼を詐欺師としてしか見ておらず、この世評はすでに相当広がっていた。この会社に必須のIDシステムの開発もはかばかしくは進んでおらず、更に相当の金をつぎ込まねばものになりそうにない。


要するに、最低6億円(最終的には10数億円程度)の新規投資と、技術開発体制のテコ入れ(或いは既存技術のライセンス)、X氏の退任による会社のイメージの刷新、信用力のある大手エンジニアリング会社との提携、エストニア技術による「携帯銀行サービス」の開発、等々を同時に即座に行っていかなければ、会社の将来像は描けない事ははっきりしていた。それでも「会社を有機的に存続させ、従業員の大半を守っていけるかどうか」は公平に見て五分五分の可能性しかなかったが、引き受けたからにはやるしかない、私はそれから約一年をこの仕事に打ち込む腹を決めた。(この会社の議決権付きの株式のほぼ全てを保有しているX氏に、どの様にして将来の再生のチャンスが与えられるかは大きな課題ではあったが、まずは会社の存続と発展を優先させるべきだと思った。)


しかし、全ての事は、結局は案ずるまでもなく、あっけない結末を迎えた。X氏は私が思った以上に事業経営について無知だったのみならず、人間性にも問題があった。経営というものが何であるかを実際に経験するいとまもなく巨額の資金を手に入れ、全てを勘違いして誇大妄想の夢の中に入ってしまっていた彼は、私や出資者の提案の全てを拒否し、あくまで自分一人でこの会社を再建すると主張して譲らなかったのだ。前述の如く、如何に巨額の資金をつぎ込んでいようと、SAFEベースの出資者には何の力もない。実質的に全経営権を持つX氏は、私を解任し、自分一人の力で再びこの会社の運命を担うことになった。


この時点でこの会社は死んだ。従業員には申し訳ないが、重荷から解放された私は「これで救われた」と言ってもよい。その後に起こったのは、「X氏の詐欺的才覚の犠牲者」がその後も次々に現れて、彼らの少額の投融資のおかげで(殆どの従業員は退社して企業としての活動は殆どないものの)会社自体は生き永らえ、X氏の毎日の生計を支えているという事態である。「投資家から預かったお金」を「自分が稼いだお金」と勘違いして、いくら無駄遣いをしても反省の一欠片もなく、殆ど詐欺行為そのものである「投資勧誘」を今もなお続けているX氏は、ある意味で「真面目に実業に取り組んでいる多くの若い起業家達の信用をも大きく毀損し続けている罪深い存在」であるが、もはや私に出来ることは何もない。


尤も、私にとっても、この間に得たものが何もなかったわけではない。ビジネス人生のこの様に遅い時期でのこの奇妙な体験によって、「会社とは何か(会社は株主だけのものではなく、社会的存在と捉えるべきではないか)」という「古くて新しい問題」について、私自身深く考える機会を得た。



終章へ向けて (2020年―2022年)


2019年の11月に私は80歳になり、2022年の2月には結婚50周年、3月には仕事を始めてから60年という節目を迎えた。頭の働きには殆ど衰えは感じないが、身体は完全に老人になってしまっている。夜は何度もトイレに起きるし、朝方は「何かに苦労している奇妙な浅い夢」を見ることが多く、スッキリと目覚めることは少ない。一つの姿勢から次の姿勢に移るのが億劫で、動作は極端に緩慢になる。腰痛の為、立ったり歩いたりするのは常に苦痛だ。至る所で体を構成する部品類にガタが来ており、「人間はどうせいつかは死ぬ。もはや時間の問題だ」という気持ちは日増しに強くなっている。


2020年の春から2 年間にわたり、世界中がコロナ禍に襲われた。老人は感染すれば死ぬ確率が高い。死ぬのは別に構わないが、貴重な病院のスペースを占拠してしまうのは申し訳ないから、できる限り出歩かず、家で大人しくしているしかないと観念した。海外には勿論行けなくなった。大概の仕事はそれまでも殆どネットでこなしていたから、大きな違いがあるわけはないが、2年間も家からあまり出ることがなかったので、流石に「もう偉そうに『生涯現役』などと嘯いているわけにはいかない」と思うに至った。


というわけで、「自分の仕事上での軌跡を忘れないうちにネット上に書き残しておこう」と考えて書き始めたこの「私の履歴書」も、2022年の3 月をもって一応「完結」させておこうと思う。もうこれ以後は特に書き留めるほどのことは何も起こらないだろう。


しかし、別に実業の世界に関わらなくても、人間として生きていれば「考えること」と「感じること」をやめるわけにはいかない。そうなると「それを他の人達と共有したい」という欲求がどうしても生まれてくる。私の場合は、それは「書くこと」だ。私の場合は「考えること」が「感じること」よりやや多い目だし、作曲をしたり、絵を描いたり、詩を作ったりする才覚はないので、評論とか、エッセイとか、小説を書くのが一番向いている。小説は学生時代にも一度書きたいと思ったことがあったし、10年前には「久慈毅」というペンネームで小説仕立てのビジネス書を三冊ダイアモンド社から出版してもらったこともあり、自分の思いを小説の形でまとめるのはさして難しくはないと思っていた。


久慈毅の著作は「日本の会社を生きる君たちへ(海外で働く父からの20通の手紙)」「日本の会社大改革物語」(それはイントラネットから始まった)」「新規事業室長を命ず(ベンチャービジネス 成功と失敗の岐路)」の三冊だった。最初の本は、Kingsley Ward著、城山三郎訳でミリオンセラーになった「ビジネスマンの父から息子への30通の手紙」になぞらえたもので、34年間勤めた伊藤忠を辞める時に、先輩や同僚、後輩に読んで欲しいと思って書いたものだった。二番目は結構売れた本で、京都産業大学で教科書として使われたほか、東大経済学部では三日間に亘ってこの本をベースに講義をさせて貰う光栄に浴した。


こういう著作は全てビジネスの延長線上にあったものだが、その先には「政治」「社会」「科学」「文化」そして、その全てに深く関係する「歴史」についての「洞察の試み」もあったのは当然のことだった。それ故に、たまたま仕事の延長で「人工頭脳(AI)の将来」について考え始めていた時に、ある日突然、私の考えは一気に一つの方向へと収斂した。目先の小さな話を飛び越えて、「人間社会の将来のあるべき姿」が明確に見えてきたのだ。


「AIというものは、カント的な「純粋理性」であるべきだし、現実にそうなれる」と私は考えている。私自身は哲学的には実存主義者を自認しており、一昔前のドイツの観念哲学などは仇敵の様なものだが、AIについてのこの様な私の考えは、私自身の実存主義的な考え方とは何ら矛盾しない。人間自身は「純粋理性」ではあり得ないし、そうある必要もないが、「人間が自分達の社会をうまくマネージする為に作り出すAI」の場合は、全く別の話だと私は考えている。私は「純粋理性など持つべくもない他の人間」に、自分の属する社会をマネージして貰いたくはない。「人類の将来」も委ねたくはない。人間の政治家などは何時どう変心するか分からないので、信用は置けない。民主主義を支える一般大衆の心も然りだ。だから私は、むしろ「純粋理性そのものであるAI」に、私自身が属する人間社会をマネージしてほしいし、「人類の将来」も委ねたい。


経済についても、私は市場原理主義者ではない。経済の成長にはその様なやり方が必要だとは認めるが、私達が今属している先進国で、経済だけが今まで以上に早く成長しなければならないという必要性は認めない。私自身は、「拝金主義」や「不必要なまでに大きい経済格差」や「破天荒な浪費」には本能的に嫌悪感を持っているし、「日常のささやかな贅沢」にさえも、慣れてしまうのを恐れる気持ちがどこかにある。


私は、昔も今も、「人間は能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」という「共産主義」以上に理想的な「経済の仕組み」はないと思っている。マルクスやレーニンは人間というものに対する理解が浅く、「人間はインセンティブがなければ働かないし工夫もしない」とか「人間は権力を持てばほぼ確実に腐敗する」とかが理解できていなかったので、実際の共産主義は惨めに失敗したが、「常に最適解を発見し、倦まず弛まず働き続け、一切の我欲を持たないAI」なら、人間の為に「緻密に練り上げられた計画経済」を運営し、「理想通りの共産主義社会」を作ってくれる可能性は十分にあると思っている。


世界中の誰もが強く求める「恒久平和」についても、純粋理性で律せられているAIなら、きっとこれを現実のものにしてくれるだろうと思っている。現在の世界では、昔ながらの「種族ごとの縄張り」を引き継いだ「国家」というものが割拠していて、お互いに自国の利益を最大化しようと競い合っている。その上、これをマネージしている人間は、「物質欲」「名誉欲」「闘争心」「射幸心」「楽観バイアス」等々に、生まれつき捉われている。だから、「この上なく悲惨で不経済なもの」だと分かりきっている「戦争」も、決してなくせそうにはないのだ。しかし、もし各国の政治にAIが深く関与する様になればどうだろうか? 戦争が起こる前に、緻密な計算で「公正で妥当な決着方法」が提案され、関係者間での合意も比較的容易になされる可能性が高くなるのではないだろうか?


だから私は、「AIが、そしてAIだけが、人類を破滅から救い、人類社会のそれぞれの構成員に『可能な限りの幸せ』をもたらす」と確信するに至っており、その確信は日ごとに揺るぎないものになりつつある。その考えに基づいて、私は2017年に「AIが神になる日」を書き、2021年の9月には、それをフォローする意味も兼ねて「2022年 地軸大変動」というSF 小説を書いた。


このSF小説の主たるテーマは「想像もしなかったような突然の大災厄に見舞われたとしたら、人類(国際社会)はどのようにこの事態に対応するのだろうか?」という問いに答えるものだ。これは、言い換えれば「人間とは、とどのつまりどういうものなのか?」という問いに答えるのと同じだとも言える。だから、この小説が「AIが神になる日」の続編とみなされるような兆候は、未だそこには特に示されてはいない。「たまたま地球に漂着して地球人に災厄をもたらした異星人『ショル』が、他の多くの知的生物が避けられなかった自己破壊を免れて生き残り、目も眩むような高度な科学技術を駆使できるに至ったのは、自らが作り出したAIに全てを委ねる決断をしたからだ」というヒントが示されているだけだ。


しかし、この小説の続編として構想されている「2055年 地球大統一」には、地球人自らが『ショル』に倣って自らの将来を築こうと苦闘する経緯が語られる予定だ。その中には当然「『人類がその政治的な決定の全てを全面的に委任するAI』が依って立つべき『基本ルール』とは何か?」「どういう過程を踏めば、人類は、国や宗教の違いを乗り越えて、この『基本ルール』の内容について合意することができるか?」等々の問いに対する答えが含まれていなければならない。私はそのことを徹底的に考え抜き、この本を2023年中には書き上げたいと思っている。これは大変な仕事だが、もしそれまでに私自身のエネルギーが完全に枯渇してしまってさえいなければ、何とかしてやり遂げたいと思う。


もう実業の世界で時間を使うことはないと思っている私にとっては、この様な「深い思索を伴う著作活動」と、その周辺でのネット空間での議論だけが、残された唯一の大きな「仕事」となるだろう。ネット空間での議論については、若い人達の為に「10年先、20年先の世界はどんなものになるか」とか「どうすれば、自分の仕事を十分に楽しみながら、良い結果が出せるか」とか「どうすればストレスなく生きることができるか」とかいった「ノウハウ的なもの」についても語り、色々な質疑に答える用意はある。しかし、それはあくまで「もし求められるなら」であり、自分から進んでこういうテーマの本を書いたり、講演をしたりするつもりはない。自分はまだまだ「人に教える」よ「自ら学び、考える」立場だと思っている。


それどころか、どこまでも欲深い私には、「2055年 地球大統一」以外にももう一冊書きたい本がある。それは、今後数多くの人達が書くことになるだろう「歴史のIF」シリーズの嚆矢となるべき本であり、1905年(日露戦争終結の年)から1945年(実際の歴史では日本が連合国に降伏した年)までに、日本とその周辺で起こる出来事を記した「別の歴史」を語る本である。「実際の歴史では1800年代の末に若くして死んでしまった数人の架空の天才達(日本人3人、韓国人1人)がもし生きていたら、1945年の時点での日本とアジアは恐らくこうなっていただろう」という物語だ。


(以前には、似たような構想で「暁の雷鳴」という本を書こうと思い、筋書きまで固めていたが、これは断念して、同じ時代を少し異なった観点から描きたいと思っている。こいういう本を書こうと思えば、膨大な量の歴史資料を読み込まねばならず、何時までそのエネルギーが残っているかが心配だが、これは運に任せるしかない。)


私は「将来の為に歴史から何かを学ぼうとするなら、数々の『歴史のIF』を必ず検証する必要がある」という考えの持ち主であり、こういう本を書くことは、単に面白いだけでなく、将来の人達の為にもなると思っている。だから、一冊だけでも良いから、何とか頑張ってこういう本も書いてみたいのだ。特に日本の場合は、あまりに愚かな戦争をして、多くの人達を悲惨な運命に突き落としてしまったという事実があるので、この様な試みには大きな意味があると真剣に考えている。



私の精神世界(生涯を通じての補遺)


ここまで書いてきた「私の履歴書」は、主として実業の世界での私の60年間の軌跡を記録したものだが、勿論私は「仕事の世界」にだけ生きていたわけではない。一人の人間としての自分に真剣に向き合うことを、私は生涯を通じて一度も欠かしたことはなかったし、そこにはそこで、多くの葛藤もあった。しかし、これは、自分以外の人達に赤裸々に語りたくはない事柄だし、今後ともそうするつもりはない。唯一つ告白できるのは、若い頃の自分の私生活には、深く自省することはあっても、誇れることは何もなかったということだけだ。自分は良い人間でも強い人間でも決してなかった。


インドである経営者と話していた時に、「55歳を超えたら仕事はやめて修行の旅(遊行)に出たい。生きている間にこの世界の真実に少しでも近づいておきたいからだ」と、彼が本気で言っていたので少し驚いたことがあるが、私の場合も、60歳を越えてクアルコムでの胸突き八丁の仕事が一応乗り切れた時点からは、同様の心境に近づいた。「毎日の仕事などは趣味の様なもの。生きている間にどうしてもせねばならないのは『自分と自分を取りまく世界』の真実(本質)に近づくことだ」と本気で考える様になっていたのだ。


そして、その様な自分自身の精神的な格闘を記録に残そうとすれば、私の場合は「小説」の形を取るしかないと考えるにも至っていた。そして、こういった小説は、一切の「虚飾」を排し、「戦略的な思考」といったものとも無関係に「ひたすら人間の内面を見詰める」という点で、別の私が書く「SF小説」や「歴史のIFを描く小説」とは、全く異質のものでなければならなかった。また、そこに描かれる人間達は、「普通にどこにでもいる、いたいけで少し可哀想な人間達」でなければならなかった。「私自身がそういう可哀想な人間達の一人だったかもしれない」という強い思いが、私の心の中に常にあるからだ。


「それなら、若い時の感性が失われてしまわないうちに書いておかねば」という気持ちから、私はそれから10年以上の歳月をかけて、夜の時間や週末を使って一人で黙々と「小説」を書き続け、最終的に長編2編、中編8編を書き上げた。今の時代にこの種の「純文学系の小説」を多くの人に読んで貰おうとしてもそれは無理な話だと分かっていたから、初めから出版は一切考えず、「そのうちに電子書籍が一般化してコストの壁がなくなれば、自費で公開すれば良い」と考えていた


死期が近づいてきているという思いにも後押しされ、最近になって私は「今やその時期が来た」と感じた。それ故、2022年の3月から始め、1年以内に全作品をKindle Book 等で漸次公開する計画を立てている。この種の小説は本名で公開するのは恥ずかしいので、当初は「外村直樹」というペンネームを使う予定だったが、それではネットでアクセスされる機会が皆無になってしまう恐れがあるので、全て本名で公開することにした。


これによって、たとえ数百人でも、或いは数十人でも良いから、私の思いを理解し、いささかでも共感してくれる人がいれば、それは自分にとって何事にも代えられぬ程嬉しいことだと思う。私が死んだ後もデジタルアーカイブはいつまでも残るので、どこかに私という人間にたまたま興味を持ってくれた人がいれば、いつでも検索して読んで貰える。「ずっと将来に思いもよらぬ読者に遭遇できるかもしれない」という可能性を考えると、「自分はこの世界で、必ずしもずっと孤独ではないのかもしれない」と思え、とても興奮する。


長編2編は「転生(サンサーラ)」と「月の光に抱かれて」の2作品だ。前者は、オウム真理教のようなカルト教団を舞台としており、後者は、妻の裏切りによって生まれたことが後でわかった「血のつながらない自分の娘」に恋をした男の物語である。


中編8編のうち6編は、まだ若かった時期の作品である「帰郷(ハイムクンフト)」、唯一つの例外として辻章氏(泉鏡花賞受賞作家)が主宰した「ふぉとん」という同人雑誌に2010年の初頭に掲載された「雨上がり」、アラフォーの女性が筆者であるかのように装って、ある団体から「奨励賞」なるものが受賞できた「微風の終わり」、終戦直後を舞台に天涯孤独な男のとりとめもない彷徨を描いた「旅まわり」、戦時中から現在に至るまでの三世代の生き方を描いた「昇華の時」、そして、最後に、東欧の架空の社会主義国で、突然、理不尽に(カフカ的に)拘束された若い日本人医師の独白をベースにした「希望(エスポーラ)」だ。最初の作品である「帰郷」は、絶え間なく続くメタファーの物語なので、ある人から「村上春樹みたいだね」と言われた。


残りの中編2編は、オムニバス形式の「リンク」と「リンク2.0」で、後者は今話題の「メタバース」の前身である「セカンドライフ」の世界を描いている。私の書く小説の殆どは「淡々と語られる悲劇」なのだが、「リンク2.0」の結末は特に暗いので、「読み終わって嫌な気分になる覚悟がある人だけがこの本を読んで下さい」という注記をわざわざ冒頭に掲げている。


因みに、これまでに唯一公開された「雨上がり」(原題は「雨」)については、読者の一人が次の様な読後感を投稿してくれたので、とても嬉しかったことをここに付記しておきたい。

<… ところがある休日の朝、ふと手にとって読み始めたこの「雨」が、主人公の視点がとても自分に近くて、面白くてやめられなくなったのです。そういえば私もかつては小説が好きだったことを思い出しました。そして読み終わった後、こういうしっかりとした手ごたえのある小説の世界こそが、自分にとっての小説の意味だったのだと気がつきました。…>


私は、自分自身の特異な生死観故に、今から20年近く前にその存在を初めて知った「樹木葬」というものに強く惹かれ、私自身の「墓標のない墓所」を、全く縁もゆかりもない岩手県の里山に既に確保済みだ。火葬場で焼かれた私の骨の数片は、この全く知らない土地に埋められて、誰がお参りに来るわけでもなく、やがては完全に忘れ去られてしまうのだろうが、これは「自分らしくてとても良い」と、私は秘かに思っている。しかし、それまでには、まだもう少しの時間はあるだろう。   


2022年3月15日


松本 徹三


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